神の名は〜土からの藤〜

 だいぶ前の投稿でしたが、土方を「ひじかた」と読ませる特殊性についての疑問をほんの少し語りました。覚えておられるでしょうか?

 …私めは…情けないことに少々忘れておりました……ネタが飛び飛びで申し訳ないです。

 

 まず「土」がなぜ「ひじ」と読むのか?

 「土師氏」の「はじ」からの転訛である。というのが最有力説と思われていますが、もう一つ別方向からの見解もあり、そちらをまずご紹介いたします。

 それは…

    「はに」→「はじ」

 「はに」とは土のことです

 そして、ここからもう少し発展させると…

 「はに」→「わに」→「和邇

 と転訛していくパターンもあるという説もあるようです。

 なにを言いたいかと申しますと、「土」の一族と「和邇氏」は同じ線状にあると言う事です。

 

 そして、「はじ」→「ひじ」→「ふじ」へと転訛をしていったのだと私めは考えているのです。

 以前、富士山の名前の由来について語りましたが…「比治山」=「ふじ山」に思い至った要因の一つに、比治山の羽衣伝説の主人公「豊受大神」の存在があります。

 この豊受大神を奥宮、真名井神社の御祭神として祀るのは、元伊勢籠神社であります。日本最古の系図を有する事で有名なこの神社は、昔話の浦島太郎の故郷としても名を馳せております。しかし、お話したいのはこれまたそこではなく…。

 籠神社の奥宮「真名井神社」に伝わる御祭神「豊受大神」についてです。

 伝承によると、真名井神社御神体は真名井から湧き出ずる水。そして豊受大神の御尊顔は「藤の花」だというのです。

 以前はホームページにも載っていたこの伝承は、なぜか今現在ホームページからは消滅しています。

 何故でしょう…謎です。

 

 「藤(ふじ)」は「土(ひじ)」からの転訛で、藤の花は羽衣伝説の主要人物である豊受大神そのものと言ってもいいモノです。そのせいだろうか?土方地区には「藤田」姓の家が多い。「ふじた」も「ひじかた」が訛ったものだろうと私は思う。

 ここで疑問を抱いた方はいらっしゃるだろうか?

 そう「藤」と出たら「藤原氏」を思い浮かべる人がほとんどだろう。しかし、以前にも語ったが藤原氏こそが歴史改竄の主謀であり実行者だ。つまり「藤」は奪われたのだ。

 ちなみに、藤原氏と関わりのある姓は「伊藤」や「加藤」など、「藤」の字が後ろについている姓である場合がほとんどらしい。「藤田」「藤木」「藤井」などは藤原氏との関わりは無く自然発生的に作られた姓であると考えられてきました。しかし「藤田」に関しては、「土方氏」から派生した「日置」「榛原」とは別のもう一つの派生氏族ではないだろうか?私にはそう思えてならない。

 更に、藤田に次いで多い氏名が「角替」だ。「角皆」という氏名もあるが。「つのがえ、つのがい」と読む。この姓のルーツは、福井県の「敦賀」にあると私は考えています。

 敦賀は、古くは「角鹿(つぬが)」と書き、記紀にも記されている。港があり、朝鮮半島から渡来してきたといわれる「ツヌガアラシト」の伝説もある。

 そうです。「つぬが」→「つのがえ」と転訛したのです。そして土形氏は元々は和邇氏という海人族。和邇氏は日本海側の海洋ルートに強い一族でした。 

 「藤田」「角替」姓が多く点在する土方地域の入山瀬という地区には、小字に「椿」という地名があります。椿は海洋民族にとって重要な植物で、椿油は舟造りに欠かせないものでした。その為なのか、海岸線付近には「椿」の字が付く地名が多いのだとか…そのうちのいくつかの地には和邇氏の痕跡があったとかで、和邇氏が椿を意図的に植えていたのではないか?とも…。まあ若干のこじつけ感はございますが、全く違うとも言い切れませんよね。

 

 少々脇道へ逸れてしまいましたが、「土」から 「藤」へ転訛し、「ふじ」とは「ふし」

 つまりは「不死」を意味する言葉でもある。

 「ひじかた」とは「ふしのかた」→「不死の方」という意味を含ませているのかもしれない。

 そして藤原氏は、「不死」の意味にあやかろうと「藤」の字を奪い「土形」を徹底的に歴史から消そうとしたのかもしれない…

 

   さてまたまた話が少し逸れます。そんなんばっかり…とおっしゃらないでくださいね…

 

  掛川の特産品の一つに「葛布」というものがあります。見た目は地味かもしれませんが、植物の「葛」の蔓から繊維を取り出し作る貴重な物です。

 この原料の「葛」

 昔はこの「葛蔓」と「藤蔓」は同じ物だと思われていたそうです。まあ流石に全く同じ植物だと思っていたかと言うと…違うと思いますが…ただ、自生していた葛蔓と藤の若い蔓を間違えた可能性はあります。更に繊維を加工した際に2つの植物の繊維が似ていた為に同じ種類のモノと勘違いしたのかもしれない。

 なにが言いたいのかと言いますと…藤と葛。土(藤)形氏(和邇氏)と葛城氏。2つの氏族を繋げたのは「津布良古王」(葛城の円大臣)なにやら深い縁を感じます。

 ひょっとしたら、藤=葛という考えも古代人が歴史上のことを暗に表現していたのかもしれませんね。…あくまで私めの憶測ですが…

 

今回はこれにて…では、また

語り部は伝う

 新型肺炎の大流行で世界的に大変ですね。

 何故かティッシュペーパーとトイレットペーパーが買えない状況にため息が止まりません。花粉症なのに…

 

   それはさておき。

 突然ですが「遠州七不思議」ってご存知でしょうか?

 遠州地方に伝わる不思議な伝説や伝承のことなんですが、実は七不思議と言っておきながら七つに収まっていないんです。

 いえ、言いたい事はそこではなくて…

    その遠州七不思議の一つ「桜ヶ池の大蛇」についてです。

 「桜ヶ池」とは、御前崎市佐倉にある池の事です。池のほとりには「池宮神社」という神社があります。

 平安時代末期、この池に「皇円阿闍梨」というお坊様がやって来ます。

 なんでも、56億何千万年後に現れるという弥勒菩薩に教えを乞う為、その身を蛇に変えて池の底で待つ。と言って自らその身を池に沈めたのだそうです。

 しかし、弟子の「法然上人」は納得できず「まだ師匠からの教えを全て得ておりません」と皇円阿闍梨を説得し、人の世へ戻ってもらおうとしました。が、説得叶わず。法然上人はせめて、という事で毎年秋の彼岸に赤飯をお櫃に納めた物を池の底に沈め、皇円阿闍梨に捧げる。と約束しました。

 後に「お櫃納め」という神事として毎年秋に行われる事となりました。

 何が不思議かと言うと、その納めたお櫃は絶対に浮いて来ない事。一説では、そのお櫃が、遠く離れた長野県の諏訪湖に浮かんでくるという。

 その為か地元では「諏訪湖と桜ヶ池は繋がっている」という伝説まであります。

 

 さて、注目していただきたいのは「皇円阿闍梨」という人物と「諏訪湖とつながる」という部分でしょうか…

    この「皇円阿闍梨」さん、ご存知の方は流石です。拍手です。

 そうです。このお方こそが歴史書扶桑略記」の著者でございます。そして、この「扶桑略記」によって「八幡神」=「応神天皇(誉田別命大王)」というイメージが広まったといわれています。

 扶桑略記は、神武天皇堀河天皇(1094年)までの国史、僧伝、寺院縁起等の仏教関連の記事を中心に多くの典籍を引用し、まとめられたものでした。

 皇円は、比叡山の僧侶でした。比叡山…古くから信仰の対象であり、平安遷都後、最澄天台宗を開いた日本仏教の聖地でもあります。平安京の鬼門に位置するため王城鎮護の山としての役割もありました。そんな場所だからこそ、国の重要な歴史書などが保管されていても不思議ではないですよね?

 皇円は、様々な書物からこの国の真実を知ったのではないでしょうか?

 実は…と言うほどでもないですが、この皇円阿闍梨の出自はなんと藤原氏だったのです。

 

 これは、私めの勘としか言いようがないのですが…

 土形氏の祖先は「応神天皇」に行き着く。その応神天皇をある意味有名にしたのは皇円阿闍梨が編纂した「扶桑略記

 そして、応神天皇の子孫である「土形氏」を徹底して隠したのは「藤原氏

 藤原氏全盛の頃に記紀は編纂され、その藤原氏の娘であり、日本で仏教を広めようとした「聖武天皇」の母「宮子姫」所縁の熊野三社は、土方の地を囲うように建立されている。

 そして、藤原氏の子孫である皇円阿闍梨は「土形」と所縁ある「比木里」近くの池宮神社にてその身を池に鎮めたのです。

   そうです…

  皇円阿闍梨は意図的にこの地を訪れている。

 更に私めの妄想を加えますと…

   様々な書物、歴史書等から、皇円は歴史の真実と藤原氏の所業に気がついた。

 皇円がこの地を訪れ、伝承を残したのは贖罪の意味もあったのかもしれない。

 

 ついでに申し上げますと…

    磐田市の見附天神社に残る人身御供の伝説も、実は皇円が創作し、里人らに伝え残したのかもしれない。

 元々の伝承は、土形の娘が都に住む貴人(柿本人麻呂)の元へ嫁いだという話であったはずだ。

 それがなぜ、化物への人身御供の話になったのか?

 土形の郷の「羽衣伝説」と同じで、一見するとただの昔話だが、その実は歴史の真実である。しかし真実をそのまま伝えるのはリスクがあったりもする。そして確実に伝え残す。という事を重視して、物語調にしたのではないだろうか?

 見附天神の人身御供の伝説も

 「サル」

 「白羽の矢」

 「乙女」

 のキーワードがある。「犬」は少しの間離れていてもらいましょう。では参ります。

 「サル」

 実は柿本人麻呂系図には「柿本佐留」という方がおります。人麻呂の兄であるとか、父であるとか言われてますが、実はハッキリわかってません。

 しかし私は、人麻呂本人であると考えております。数ある人麻呂の別名のなかで1番最初の名前であったのだろうと思います。

 「サル」から「ヒト」へ進化(成長)したので名前が変わったのでしょうか?それとも、本当の名前が「サル」であったものを後の世の人が敬意を込めて「ヒト」へと進化させたのでしょうか…

 そのサルの元へ「矢」で選ばれた「乙女」が捧げられる。

 おやおや?どこかで見たような字面ですね。

 そうですここにも「ヤオトメ」が出てきます。更に仕掛けがもう一つ。

 「白羽」

 実はこの文字、別の文字にも変換できるんです。

 「素羽」

 「素」とは白いという意味もあります。

 「因幡の白うさぎ」も古くは「素兎」と書いているんですよ。

 さて皆さまお気づきでしょうか?

 そうです「白羽の矢」とはつまり「素羽の八乙女」という意味もあるのです。「諏訪のヤオトメ」とは、土形氏の母「摩奴良姫」であります。

 土形の乙女(つまり摩奴良姫の子孫)が都に住む「サル」つまり柿本人麻呂のもとへと捧げられた。

 とまあ磐田市教育委員会からしたら「なに言ってんの⁇」と言われそうですが…

   また更に話を広げますと、猿を神使にしている神様をご存知ですか?

 「日吉神」

 比叡山延暦寺の守護神として崇敬を受けておりますが、延暦寺建立以前には「比叡山」は「日吉山」と呼ばれ、日吉神社が祀られておりました。日吉神とはすなわち「大山咋神」であります。

 さてこの辺で「まさか」と思われた方、素晴らしい。

 「大山咋神」の御神体として「鳴鏑矢」を祀るお社があるようで、そのせいなのか「丹塗り矢」伝説の賀茂の玉依姫の夫としての伝承もありますね。

 そうです、賀茂の玉依姫も「ヤオトメ」なんです!

 いい加減しつこいかなぁ…とは思ってます…ハイ

 ただですね…

   日吉山は琵琶湖の最南端。琵琶湖は日本海と都、更には太平洋側をも結ぶ、いわば水のバイパス道路なんです。古代において、琵琶湖を制していたとも言える一族はズバリ「和邇氏」です。和邇氏はその海運技術により当時の日本の物流を握っていたと言っても過言ではありません。そんな和邇氏の末裔でもある「大山守皇子(兎道稚郎子)」が日吉神社の神として祀られていてもおかしくはないでしょう?名前も似ているし…

   

    だいぶ脱線しましたが…つまり、全てはつながっているのです。

 どんな形にせよ、誰かが語り継いでいかなければここまでの推測にまで至らなかったと思います。

 伝説は語り部がかく語りき

 

 

   今回はこの辺で…では、また…

 

   

伝説はかく語りき

 新年ですね。

 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

 ホントに一年なんてアッという間です。こんな事を毎年言ってます。ため息が増えた気がします。

 暗くなるのでやめましょう。

 本題に入る前に少しだけ小話です。

 今年の干支はネズミでしたね。漢字1文字で「子」と書きます。

 この漢字、実は2つの漢字からできている事をご存知ですか?

 

 終わりを意味する「了」

 始まりを意味する「一」

 

 つまり「子」は、1文字で終わりと始まりを表現しています。

 生まれてきた子供の魂は、前世を生き抜き、終えた魂であり、またこれから新たな生(世)を始める。といった意味でもあるかもしれません。

 今年の「子年」は、苦しみが終わって喜びが始まる年であって欲しいですね。

 

 では本題へ戻ります。

 前回「羽衣伝説」は伊豫部馬養と柿本人麻呂

共謀して作り上げた。と申し上げました。

 私は、その他にも人麻呂は古事記に仕掛けを残したと考えております。

 出雲神話スサノオクシナダヒメ

 ツヌガアラシトの来日

 磐姫の家出

 言い出したらキリが無さそうなのでここらでやめておきます。

 

 人麻呂は、しばらく藤原氏の言いなりになりつつ頃合いを見計らっていました。

 都を抜け出す時を…

   転んでもタダでは起きない。という想いで風土記や日本各地の伝説伝承を残し、あるいは作り上げていったのだろうと私は考えています。

 藤原の監視下から逃れるために手を尽くしたことでしょう。

 しかし、人麻呂は妻である依紗羅姫の安全を確保していたはずです。その方法とは…

 「犬養三千代」を味方につけること。

 犬養三千代をご存知の方もいらっしゃるでしょう。そうです、藤原不比等の後妻となり、聖武天皇の妻となる光明皇后を生んだ方でございます。

 一説によると、聖武天皇の父「文武天皇」の乳母であったとか…

   実はこの犬養三千代さんも人質として藤原家に連れてこられた方だったのです。…という犬養三千代の人質説は、以前紹介させていただいた「関裕二」先生がおっしゃっていた説です。ここでは割愛いたしますが、気になる方はぜひ先生の本を読んでください。

 

 犬養三千代は元々、文武天皇の母、阿閇皇女(のちの元明天皇)の元へ出仕していたという。そう言った関係から文武天皇(珂瑠皇子)の乳母となり、優秀な女官ということで、藤原不比等に見初められた…というのが通説らしい。

 乳母ということは、同じ時期に自らも子を生んでいる事になる。数年の差異はあるだろうが、文武帝と同じ時期に人麻呂の娘、宮子姫も生まれていた。

 元明天皇

 柿本人麻呂

 犬養三千代

 ひょっとしたらこの三人には、何かしらの繋がりがあったのかもしれない。

 『古事記』完成も元明天皇の御世であった。

 

 西暦701年。

 文武帝の妃、宮子姫が男皇子を出産。後の「聖武天皇」となる「首皇子」である。

 同じ年、何故か皇太天皇(持統天皇)が周りの反対を押し切って「伊勢僥倖」を決行。私はこの伊勢僥倖が「柿本人麻呂の処刑」を持統天皇が見物に行ったのではないか?と考えております。

 人麻呂の不審な行動等に藤原不比等は怯え、人麻呂を捕らえ、そのまま処刑を断行しようとした。

 しかし、人麻呂は処刑されるフリをして、予め準備していた舟に乗りそのまま東へと向かったのだ。それはさながら、伝承にあった伊勢津彦の如く…

大船団に見せかけ、幾つものダミーの舟を用意していたかもしれない。

 伊勢津彦の伝承は、大山守皇子(兎道稚郎子)の都落ちの様であると以前語らせて頂きましたが、どちらにせよ、人麻呂は藤原不比等持統天皇を挑発していたのかもしれない。

 

 捕まるものか

 

 探せるものなら探してみよ

 

と…

  ひょっとしたら、藤原政権では東国との関係がよろしくなかったのではないか…

    だからこそ、容易に手を出せぬ東へと人麻呂は向かったのかもしれない。更に言えば、妻の実家である土形郷へと向かったのかもしれない。

 

 土形郷を囲うように創建された東の熊野三社はおよそ三年をかけて完成した。

 伝承による創建者は「長忌寸意吉麻呂」であるとされているが、私はこの名も人麻呂の別名であると考えております。その他にも「山部赤人」も人麻呂の別名ではないか?と疑っております。

 

 またも余談ですが

 高天神城の「姫井戸伝説」は当初は「羽衣伝説」として土形午(牛?)養と柿本人麻呂が土形の郷人らに伝えたのではないだろうか?

 それが、長い時を経て戦国時代を経験し、更には、掛川城主であった山内一豊と共に「土形家本家」が土佐国へと移動してしまった為に、伝説が変化してしまったのだ。それでも、郷人らは「伝説」を伝え残さねば…という想いと本能で、親から子へ孫へと「井戸」の伝説は伝えられたのかもしれない。

 …ところで、これまた私めの勝手な妄想ですが…

「土佐」という国名。はっきりとした由来はわかっていないそうです。…何を言おうとしているかわかった人、いますよねきっと…

    そうです。「土形」と関わりがあるのではないでしょうか?

 呆れてしまった人はこの辺でやめておいた方が良いです。

 

 土形氏の初代。そうです「津布良古王」くんは実は「円大臣」であり「一言主神」なんです。

 一言主神は、四国の土佐国へと移り祀られております。

 故に、「土佐」とは「土」の「佐」(補佐等の意)という国名になったのかもしれない。

 徳川家康がその史実を知り、土形氏を抱える山内一豊土佐国統治を命じた…というのはさすがに飛躍し過ぎでしょうかね……

    ただ、ちょっと偶然が過ぎる気がして…

 

    ちなみに、「秀真伝え」(ほつまつたえ)という古文書には、一言主神の両親は「スサノオ」と「クシナダヒメ」であると書かれているとか…

   ただ、残念なことにこの「秀真伝え」という古文書には「偽書」疑惑がついております。

 さてさて…真実はどこにあるやら…

    ではでは、そろそろこの辺で…

     また…

 

 

 

 

   

   

 

 

神の名は〜その名に宿し言霊

 先日、ショッキングな漫画を発見してしまいました。なんと、古事記を編纂したのは実は藤原不比等であったという物語の漫画です(ザックリ説明)  … ビックリです…

 

   何度も言いますが、古事記の編纂を主導したのは「柿本人麻呂」です。

 依頼主は「天武天皇」です。

 この件に関しても追々語るつもりです。

 

 さて、皆様は「名前」について考えた事はありますか?自分の名前について、人生で一度はその意味について考えたり、調べたりしたかと思います。

 こんな事を聞いた事はないですか?

 「名は、そのモノを縛る言霊である」

 この世の様々な名前には言霊が宿っているのです。言霊について長々と語るつもりはありませんが、私の推論は「名前」が重要なのです。ちなみに、地名もその土地の「名前」という事になります。

 

 私めがまず疑問に思った事は「土方」と書いて「ひじかた」と読ませる特殊性。これまでの先人たちの見解としては「土師氏に関係する氏族だったのであろう」という事でした。

 けれど、それだけで日本史のなかで重要人物である「応神天皇」の子孫が名乗るには「土師氏」との関係性は見えてこない。

 ある人は言いました。

 「土師氏は主に土器などの生産を司り、その製品などを運ぶ手段は船などを使ったため、山海の長として定められた大山守命皇子の子孫が「土」の字を冠する名を名乗るにはなんら不思議は無い」

 

 確かにそうかもしれない。

 けれども何か府に落ちない。

 そう思いある日ふと、ネット検索で「土形」と入力してみると…

    「羽衣伝説」に行き当たったのです。

 …同じ話を何度もスミマセン

 

 では、ここからは私の妄想と推論が入り混じった、物語のような話をいたしましょう。

 ウンザリと思われた方…今のうちにこれを読むのをやめた方が良いです。

 

 まず、時は遡り約1300年程昔。

 権力を手中に収めた藤原不比等は、幼き日嗣の皇子「首皇子」の為に、柿本人麻呂を脅して作らせた「古事記」を基に「日本書紀」を編纂しました。

 元々の古事記は、天武天皇の「各地域、各氏族の持つ伝承等をまとめあげ、選別し、この国の歴史を残す」という意図で編纂が進められていたはずです。

日本書紀」は実に皇族にとって都合の良い物語となっており、首皇子にとって良い教科書になるだろう、そうしなければと不比等は思っていたでしょう。

 ところが、人麻呂も黙って言われるがままに従う気はありません。分かる人にはわかるように、古事記を編纂していました。不比等は人麻呂の意図には気づかず、日本書紀編纂時、古事記から引用する部分も多くあった事でしょう。

 その代表的なものが「出雲神話」です。

 記紀の中にある「出雲神話」と「出雲風土記」の「出雲神話」には異なる部分があるのは有名な話です。それは、記紀編纂時に各地の神話や伝説をまとめる際に、天皇家にとって都合の良いようにまとめられたからだと言われておりました。

 確かに、王家に都合よく歴史書が作られるのは世の常であった事でしょう。

 ただ、私が見つけた違和感は小さなモノでした。

 それこそが「名前」だったんです。

 出雲神話と言えば…「八岐大蛇退治」の説話ですよね。この八岐大蛇退治の伝説でヒロインとして登場するのが「クシナダヒメ」です。

 記紀だけを読めば、この姫はスサノオによって櫛に変化させられるため、名前に「櫛(あるいはクシという言葉)」がつくのか…という印象が残ってしまうでしょう。

 しかし、出雲風土記では「久志伊奈太美等與麻奴良比賣命」と表記され、稲田の神としての特性を与えられている。更に言えば、「くしいなだみと(よ)あたわす」までが敬称であり「麻奴良比賣」が真の名であり、女神の特性〜本名までをしっかりと伝え残してしている。

   このクシナダヒメの本名である「マヌラヒメ」を記紀はなぜ省いたのか?

 それは、藤原氏にとって知られると都合の悪い名前だからです。そんな名前を人麻呂はあえて隠したのです。違和感を与える為に。

 既にお気づきでしょうが、何故「マヌラヒメ」が藤原氏にとって都合が悪い名前なのかというと…そうです。人質として連れてきた人麻呂の妻、土形氏の娘「依紗羅姫」のご先祖に当たる方と同じ名前だからです。

 藤原氏はこう考えた事でしょう…「マヌラヒメ」と「スサノオ」の子孫の系譜を知られてはならぬ。

 

 国の歴史書製作は、国の一大事業。それ故に関わる人の数もそれなりに居たはずで、関係者には多くの知識人有識者が名を連ねていた事でしょう。

 この一大事業に、柿本人麻呂と共に関わっていたであろうとされる人物に「伊豫部馬養」という者が挙げられています。

 そうです、丹後国風土記にこの国最古の「羽衣伝説」を伝え残した人物です。

 このお方も謎めいた方とされておりますが…私は気付いてしまいました。そう、この「ウマカイ」なる人物…実は土形氏出身の方なんです。…と言い切っちゃってますが、私めもハッキリと確証があるわけでもなく…少々見切り発車な部分が否めないのですが…

   スミマセン、言い訳です。

 というのも、「土方家系図」に「牛養(うしかい)」という方がいらっしゃいます。この方のご兄弟には「難波長柄宮」に仕えた方がいらっしゃいました。難波長柄京と言えば、孝徳天皇の時代です。

私はふとある考えが浮かびました。

 「牛」という字は書き間違いで、実際は「午」という字だったのではないか?

 「土方家系図」を新たに書き直す際に字を見間違えたか、書き間違えたかしたのではないか?

 「伊豫部馬養」という人物が丹後国風土記に「羽衣伝説」を残した際、既に高齢であったという推察がある。馬養は丹後国風土記に「羽衣伝説」を伝え残した後、次の任地である伊豫国へと赴任したらしい。

 伊豫国とは現愛媛県のことである。

 愛媛には、一級河川の「肱川」という川があります。古くは「比治川」と表記されていたとか…あ、と思われた方、そうです…「ひじ」なんです。穿った見方をしてしまいますよね。

 「土方」と関係している?

 つまり、馬養なる人物は「土方」なのではないか⁉︎

 

 ちなみに、愛媛県の向かいにある広島県には「比治山」という小高い丘があります。瀬戸内海の島々も挟んでいるので愛媛県から見えているかは…考えられませんが、しかしこれは本当に偶然なのでしょうか?

 広島の比治山に関して、言い伝え等あれば調べたいところなんですが、力及ばず…

 

   さて、だいぶ話がそれてしまったので元に戻しましょう。

 私の言いたかった事は…

    伊豫部馬養が柿本人麻呂と共謀して「羽衣伝説」を残した。

 という事なんです。

 「羽衣伝説」が鍵となって、藤原氏によって抹消された歴史が現れてくるのではないか…

    私にはそう思えてなりません。

 

 更に余談ですが…

   以前、掛川市教育委員会教育委員会

:その土地の遺跡、埋蔵文化財なども管理してらっしゃいます)の方に「高天神城趾の姫井戸の伝説」について、これは「羽衣伝説」ではないか?と話したトコロ…キッパリと否定されてしまいました。残念無念…

 

   長くなりましたが、続きは次回に…

   では、また…

 

神の名は〜数多ある名前

    先月の話ですが、 1か月ぶりにフリーのお休みができたので、約10年ぶりに映画館に行ってきました。

    緊張しました。今はチケットもタッチパネルで購入できるんですね…チケットのもぎりも…やってないんですね…ポップコーンのフレーバーが凄いことになってますね…浦島太郎状態を悟られまいと必死に平然としたフリをしてました。歳がわかってしまうでしょうが、口は閉じましょう。変な汗…かきました。

    観た映画は『天気の子』でした。面白かったです…

 

   さて、長々ダラダラとブログを続けてしまいましたが、そろそろ締めに入って行きたいと思っています……思ってはいるんです……がしかし、なかなか進みが遅くなると思います。今から謝ってしまいます。ごめんなさい…

 

   私めが地元の歴史に興味を持ち、調べ始めたのは今から12年前になります。まだまだ調査も考察も甘いですが、自分の故郷がなぜそこにあるのか?その理由が少しわかって、今はとても誇らしい気持ちです。

    思い起こせばそれは、小学校6年の時です。歴史の授業でした。

    「士農工商」の話を先生がしていた時、その場の空気を和ませようとしたのでしょう、先生は言いました「…なので、Yaotome の家は士農工商で言うと1番下になるって事だな!」

    当時ウチの実家は、自営業でお店を開いていました。田舎とはいえ、店が全くないわけではなく、ただそのクラスでは私めの家が唯一の商業の家だったのです。今の時代でこんな事言ったら大変ですよね。最近の教科書には「士農工商」というのは載っていないそうで…いやはや時代ですね…

   ただ、当時の自分はやはり納得できず、帰宅後祖父母に尋ねました「ウチのご先祖はどんな人物」か?

    しかし、実家での始祖様は曾祖父母という事で、あまり期待した答えではありませんでした。ですが、この時の会話が元で、祖父は親戚が集まる行事の度に古い系図を掘り起こそうとしてくれていました。それを元に家系図を作ろうとしていたようなのです。この事実も、祖父が亡くなって七回忌の法要の際に知りました。やはり、話をしなければ、聞かなければわからない事って多いですね。

   それはともかくとして、自分の家の歴史は浅かったと勝手に落ち込んだ私めは、ハタと思いつきました。一戸の家ではなく、町や村、つまり土地の歴史はどうだろう?と思い立ち調べ始めたのです。

   今ではすっかり郷土愛の権化と化しており、このブログでも妄想特急が走ってる部分が多いかと思われます。

   しかし、言い訳させていただけるなら、歴史をただの記録としてみるのではなく、人の生きてきた証として私は見ております。人が生きてきたのが歴史ならば、人の感情も歴史の一部ではないか?という想いでブログを綴っております。伝承や伝説には、人の想い、思惑、感情が含まれていると、私は勝手に感じております。

   前置きが長くて申し訳ありません。では参りましょう。

 

   とっても久々に、当ブログの過去の記事を読んでいました。

   ……なんという事でしょう…「摩奴良姫の実家を探せ!」が中途半端になっている⁉︎

   2年経ってやっと気づくという詰めの甘さ!というか頭のユルさ!というか…

   大山守命皇子と摩奴良姫の2人がいとこ同士での結婚である。というところで終わっていました。

   現代でもいとこ同士は婚姻できますが、古代の、しかも王族となると話が違ってくるようで、いとこ同士はもちろん腹違いの兄妹でも婚姻関係になれたようです。大王家ではそれが特に重要だったようで、記紀の中では大后は、大王と親戚関係にある者の中から特に選ばれたようです。妃(側室のようなもの)には有力豪族の娘などが入っていました。言い方は悪いですが、妃に入った娘が上手いこと大王の子供を授かれば、大王家との姻戚関係が築けるといった寸法です。

   血が近い者同士の婚姻は危険が伴う。古代の人もそれはわかっていたとは思います。しかし、大王家の神聖な血が濃ければ…その子は日継ぎ皇子(皇太子)として頂点により近くなる。

    私は勝手に「血の神聖」と呼んでいますが、大王家の血を神聖視していたのだろうと思います。

   和邇氏の大山守皇子と摩奴良姫。素性を辿ればどちらにも大王家の血が入っている。(表面上はですが)

   その2人の子である「津布良古王」は、おそらくもっとも大王の地位に近かったことでしょう。

   そして、そのように筋書きを組んだのはやはり最高権力に最も近かった「和邇」の一族だった。

   和邇氏は、最先端の技術を武器に国内の地位をぐんぐん上げていきます。しかし、昇りつめてしまえばあとは下るのみ…和邇氏は他の豪族に足元を掬われてしまうのでした。

 

   さて、ここでまたもや名前について語りたいと思います。以前にも語らせていただきました「摩奴良比売」という名前ですが…そう、出雲神話クシナダヒメの本名「久志伊奈太美等與麻奴良比賣」と同じ名前なんです。

クシナダヒメも「麻奴良比賣」

土形氏の母も「摩奴良比売」

   つまり、この2人の夫=スサノオ

ということになるのです‼︎

…若干の無理矢理感は否めませんが…

ただ、記紀で披露される出雲神話を見ると、スサノオクシナダヒメが2人1組のセットととして刷り込ませているように思えるのです。もうお分かりでしょうか…?

    そうです。

    大山守命皇子はスサノオの立ち位置なんです。

   大山守命皇子=菟道稚郎子皇子=スサノオ

  さぁだんだんと訳がわからなくなってきました。いつも下手くそな説明で申し訳ないです。

   残念ながら、また続きます。

   今回はこの辺で…では、また…

 

真実は小説より奇なり3

   仁徳天皇陵ユネスコ世界文化遺産に登録される見込み

   ニュースでざわついておりますね。仁徳天皇といえば、土形氏の祖先である「大山守命皇子」(宇治稚郎子皇子と同一人物ですよ☆)のご兄弟ですね。

   ………お祝いムードの中…思い切って水を差そうと思います。

   まず、仁徳天皇陵が本当に仁徳天皇のものなのか?

    私はキッパリ「違う」と言いたいですね。あそこまで巨大な墳墓を作るという事は、国の財政が潤っていなければできないのではないでしょうか?

    同じ世界三大墳墓の「クフ王のピラミッド」も「秦の始皇帝陵」もそれぞれの王たちが国の繁栄を築いてきたからこそできた墓であると言っても過言ではないはずです。

    仁徳天皇の時代…正直、あの巨大な墓を築くまでの繁栄があったのか?というのは疑問です。

    更に、歴代の天皇陵の比定に関して、そのほとんどが明治時代に日本書紀を参考にして定められたと言うのがまたひとつ疑問に挙げられます。

   そして、今日まで天皇陵の比定地が曖昧のままになってしまったのは、ほとんどの天皇陵が禁域として定められ、各墳墓の学術調査が思うようにできないというところに問題があります。

    仕方ないと言えば仕方がないですが…そろそろ、日本人も自分のルーツをハッキリさせる時期なのではないでしょうか?

  … 生意気を申しました。

 

   さて、話を戻しまして…

   柿本人麻呂さまが活躍していた頃、国は荒れておりました。

   壬申の乱を経て、天武天皇が治めていた時代。人麻呂は依紗羅姫(土形娘子)と幸せに暮らしておりました。とはいえ、人麻呂は大変忙しかった事でしょう。政権交代したばかりの国政。あれやこれやと整えるべきものが多かったと思います。私の勝手な妄想から申しますと、人麻呂は天武天皇の秘書のような役割だったのかもしれません。国政の様々な取り決めや制度を整えて行くために、最高責任者の手足となる者が必要だったはずです。人麻呂はおそらく、天武帝の代わりに各地各所を飛び回っていたことでしょう。

   そんな中でも、歌を詠み妻へと送る。それがあたかも各地の女性に恋文を送るかのごとく、人麻呂の詠んだ歌が万葉集に納められたのかもしれません。

   そうして数年後、天武帝が病に倒れた頃、おそらく政権にほころびが生まれたのかもしれない。その頃から藤原不比等が台頭し次第に力をつけてきたのではないでしょうか。

   その頃の不比等にとって目の上のタンコブのような存在が2つ。天武帝の手足となって動いていた「柿本人麻呂

    天武帝に味方して力を取り戻しつつあった「土形氏」

   まあ厳密にいうと、不比等にとって邪魔な人物は多々存在していたと思われますが…

   しかし最も厄介な柿本人麻呂の存在を抑えるために、不比等は強硬手段を取ったのです。

   そうです、それは人麻呂の妻を人質に取る事。

   人麻呂の妻「依紗羅姫」=「土形娘子」を人質にとってしまえば「土形氏」をも抑え込める。そうして不比等は実行したのだと思われます。しかし、依紗羅姫は妊娠または既に子を生んでいた。だがそこはそれ、不比等は考えた事でしょう「いつか手駒として使えるかもしれない」と。

    人麻呂の葬送歌はひょっとしたら、妻が監禁されている場所を指して「あそこに妻が居る」と訴えている歌なのかもしれない。

   そして、依紗羅姫は「賀茂比売」として歴史書に載ることになった。

   そうです「賀茂比売」とは「矢の姫」なんです。

   「矢の姫」は「八の姫」

   「八の姫」は人身御供として化け物に捧げられてしまう。そう、まるで「出雲神話」の「クシナダヒメ」のように…

 

   更にもう一つ、この賀茂比売が生んだ「宮子姫」

   度々申し上げますが、柿本人麻呂の子です。そして、おそらく女性で初めて名前に「子」という字をつけられた方です。

  以前お話した事があると思いますが「子」あるいは「古」という字は元々男性、男児に多くつけられておりました。古代においては、比較的「和邇氏系」の氏族に多かったとか…

   この「宮子」という名前、おそらく名付けたのは母である「賀茂比売」つまり土形娘子です。何故なら「宮」という字は陰陽五行で表すと「土」だからです。更に言えば「土」は「央」つまり「中心」なんだそうです。

   また怪しさが増した…と思わないでくださいね。

   そもそも、この時代は大陸(主に中国ですね)からの文化、思想が日本に大いに流入しておりました。その証拠に、都を造営する際にも中国の文化を参考にしています。陰陽道の考え方も伝わっていました。天武帝陰陽道を学んだとか……

   最もわかりやすいのが、平城京遷都の際の元明天皇の「平城京遷都の詔」ですね。

   平城の地は四禽図に叶い三山鎮をなす   

 

   すみません、わからない方は自分で調べてください。今回は解説飛ばします。

 

    話を戻しまして…

    土形娘子は、生まれた我が子が「藤原」の娘として生きていかなければならない事が悔しかった。だからこそ名前に真の素姓を託したのかもしれない。

   我が子は「土」の子也

   

   我が子は「土形」の子であると…

   そして、そんな「賀茂比売」の意を汲んで、柿本人麻呂は妻の故郷である「土形」の里を守るかのごとく「遠江熊野大社」を建立したのである。

   そうです、柿本人麻呂は奥野左衛門是吉だったのです!

   今も旧大須賀町にある「三熊野神社」には、彼を祀る小さな社があります。

 

   柿本人麻呂の墓は大須賀にあり

 

   ちょっと信じ難い話になりましたが…

 

   さて名前が複数あってややこしいですね。申し訳ないです。

   でも、まだまだややこしくなります。ごめんなさい

 

   今回はここまでです

   では、また…

   

 

      

真実は小説より奇なり 2

  お久しぶりでございます。平成もあとちょっとで終わりますね。ひとつの時代に区切りがついて、物悲しくもあり、新しい時代への期待も有りでなんだか複雑な心境です。

   「令和」

    良い響きですね。せめて人々の喜びの多い年代になりますように。

    ではでは、本題に入りましょう。

 

   さて、前回突然登場いたしました「柿本人麻呂」さまですが…。この歴史的超有名人がどうして「土形氏」と関係してくるのか?とお思いですか?それとも、歴史好きにとっては「そんな事知ってますとも」と仰るでしょうか?

   そーなんです、実は日本最古の和歌集「万葉集」に柿本人麻呂の妻では?という事で「土形娘子」という人物が出てくるのです。しかし、人麻呂がこの「土形娘子」にと詠まれた歌は「葬送歌」だったため、この娘はわざわざ田舎から人麻呂の元へ嫁に来たのに、若くして亡くなってしまったのだろう…というのが今までの見解です。

   しか〜し!私はこの見解に異論を唱えます‼︎

   まず、この土形娘子は「若くして」亡くなってはいないのです。

   葬送歌なのに?と思いますでしょうが、しばしお待ちを…

 

   万葉集が編纂された頃、おそらく「古事記」「日本書紀」も編纂、あるいは完成されていた頃だと思われます。

   そして、その頃の権力者といえば、言わずと知れた「藤原氏」であった。

   柿本人麻呂は、元々天武帝に仕えていたために藤原政権に疎まれていた。そのため、人麻呂が残した歌を後世に残すためには策を労す必要があったのだ。人麻呂の歌を残すために、様々な歌を集めた「万葉集」に人麻呂の歌を散りばめたのではないのだろうか?

「木を隠すなら森に」という言葉があるように「歌を隠すなら歌集に」と編纂者は考えたのではないか…

 

   ところで…「柿本人麻呂」をよく「宮廷歌人」と称するモノが多いが、これは役職ではないというのは…歴史が好きな方はご存知ですよね。

    そんな雅な役職があるはずも無く、当然、人麻呂は当時の位階制度に則り何かしらの役職についていたはずです。しかし、それすらもわからない謎の歌人として、何故か有名になってしまった柿本人麻呂さま。

   さまざまな研究者の方々…ごめんなさい。私めはとんでもないことぶっ込みます。

 

   柿本人麻呂は、妻と子供のために「古事記」と各所の伝説伝承を作り上げました。

 

   はいスミマセン申し訳ございません。

   でも言っちゃいます。

   前回、お話させて頂きました「宮子姫」

   彼女は、藤原不比等の実子ではありません。そう、柿本人麻呂と土形氏の娘、伝承では、人麻呂の妻の名を「依紗羅姫」と申しますが、この2人の間に生まれてきた姫なのです。

   かなりぶっ飛んだ妄想だと思われるでしょうが、まぁそのまま聞いて(?)ください。

   まず、人麻呂と土形娘子「依紗羅姫」の馴れ初めですが…

   人麻呂は元々、大海人皇子(のちの天武天皇)に仕えておりました。大海人皇子は後々の事を考え、各地に味方を作っていた。その一つが、土形氏であります。

   今まで語ってきました通り、土形氏の始祖は大王家の御子でございます。つまりは元を辿れば皇族。更にはかつて国政の中心を担っていたであろう「葛城」「蘇我」との繋がりもある。更に更に、元々が「和邇」という海人族であるため、各地にパイプを持っていてもおかしくない。大げさに言ったとしてもこの土形氏が大海人皇子に味方しないわけがないのだ。その証拠に「土形氏系図」に天武朝の官位「直大肆」を賜わった人物がいる。壬申の乱の折にそれなりの功績があったのだろう。

   そんな繋がりの中、一族の娘が柿本人麻呂の元へ嫁いだのは自然の流れだったと思われる。そういえば「柿本氏」も元を辿れば「和邇」ではないか。

   ここからは、私の妄想力が暴走していると思われるかもしれないが…

   人麻呂と依紗羅姫は互いに惹かれあって一緒になったのだろう。

   だからこそ人麻呂は古事記万葉集にヒントを残した。それは後の世に真実を伝えるために。

   あ、ちょっとわけのわからない流れになってきましたでしょうか…

   今回のところはこの辺で…

   では、また…