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摩奴良比売の実家を探せ

    さて、今回は大山守皇子の2番目の奥さんである「摩奴良比売」について語りたいと思います。

    土形氏系図に「遠淡海国造女〜云々」と書かれていたため、遠江国の国造家から大王への従属の証として差し出された姫…と思われてきたようですが、実は違うのです。

   何度も言いますが、大山守皇子は本名が菟道稚郎子皇子で、皇太子であった。皇太子の元にど田舎の娘っこが嫁ぐのは、相当なツテでも無いかぎり難しいのではなかろうか?

    あるいは、誰もが噂するような相当な美人であったため、差し出されたとか?

   しかし、大山守皇子を謀叛人として描く記紀には大山守皇子の「妻」どころか子供についてすら詳しくは書かれていない…。それは何故か?答えは簡単、記紀編纂者にとってそれが不都合な真実だからだ。

    またか…とため息をついた方。わかりますよ。「不都合な真実」とか言っとけば、なんでもまかり通ると思ってんなコイツ…。と思いますよね。そーなんです、若干思ってます。でもちょっと我慢してくださいね、後々わかってきますので…。

   さて、話を戻して…。

   以前にも申しました通り、この「摩奴良比売」と言う名前。かの有名な「出雲神話」に出てくる「クシナダヒメ」の本名と同じ名前なのです。

   

   クシイナダミトアタワスマヌラヒメ

   久志伊奈太美等與麻奴良比賣

 

    「與」は「アタワス」と読む場合と「ヨ」と読む場合があるようです。

 

    なぜ遠江国の姫に、出雲国の女神の名前を名付けられたのか?歴史書が言う通り、遠江国造と出雲国造が同じ祖先を持つからというだけでは、女神の名前なんて畏れ多くて付けられないような気もしますが…。

    神の名前をつけるくらいだから、この「摩奴良比売」の親はきっと何かを伝え残したかったのではないだろか?

    あるいは、子孫があえて神と同じ名前にして系図に残し、一族の伝説や伝承を残し易くしたかったのか…。

    名付けの意味についてはとりあえずあっちに置く事にして、摩奴良比売の素性についてお話ししたいと思います。けっこうなややこしさなので覚悟してくださいね。

 

   大山守皇子の妻、摩奴良比売とその子供である津布良古王の母子が、亡命の果てに辿り着いた土形里から西へ西へと目を向けると、かつて遠江国の国府が置かれたとされる磐田市見付があります。

    東海道見付宿

    東海道の宿場街があったとされる「見付」という土地には創建年代のハッキリしない「見付天神社」という神社があります。

    この神社には、人身御供の習わしがあった。しかし、強制的に強いられるものが長続きするはずもなく、結果的に人身御供を村人に要求していた妖怪は倒され、人々を苦しめていた人身御供の習わしは解消されることとなった。

   おや?と思われた方、いらっしゃいますでしょうか?

    そうです「人身御供伝説」なんです。

    記紀の中の「出雲神話」にもありましたね「人身御供」のお話が…。そのお話の中心人物の1人が「クシナダヒメ」です。

    クシナダヒメは8番目の姫でした。

   

     話を少し戻しまして、見付天神社の御祭神について話をしましょう。

    実は、見付天神社の正式名称は「矢奈比売神社」です。姫神主祭神とし、あとから天神様(菅原道真公)を祀っていたようなのですが…。主祭神である「矢奈比売」についてはよくわかっていないらしいのです。

    しかし‼︎ 私は見つけてしまいました。江戸時代の国学者「内山真龍」が失われた「遠江国風土記」を再編纂しようと、各地に残る伝説、伝承を調べて自らの見解も残していたらしく、その中に見付天神社=矢奈比売神社についても自らの見解を述べていたのです。

   

    「矢奈比売」というのは「矢の姫」が訛った名前ではないだろうか。「矢の姫」とは即ち、賀茂伝説の「玉依姫」のことである。

 

   つまり、磐田市見付の見付天神社の御祭神の正体は「玉依姫」であると言っているのである。

    見付天神社の祭神がわかったところでそれが何なんだ?とお思いでしょうか?

    そーですね、一見関係の無い話のようですが…一つ頭に置いて頂きたい。それは…「古代人は言葉遊びが好き」なんです。その最たるモノが「和歌」です。大昔、文字が伝わる前は「音」が重要だったのです。

    何が言いたいのかと申しますと…。

    国学者、内山真龍は「矢奈比売」を「矢の姫」と解いた。

   ならば「矢の姫」は「八(ヤ)の姫」でもあるのでは無いだろうか?

   「八の姫」と言えば…皆さんもうお判りですね?そう、「八の姫」=「クシナダヒメ」=「マヌラヒメ」なんです。

    つまり、見付天神社の祭神「矢奈比売」とは大山守皇子の妻「摩奴良比売」だったのです。

    では、摩奴良比売は磐田の見付出身だったのか〜。と思われた方、残念。半分不正解です。何故半分かはまたまた後々わかります。…そんなんばっかりでスミマセン…。

   さて、少しばかり道をはみ出して…。

   見付周辺にある地名に「一言」と「加茂」があります。この二つの地名は隣同士なので、そのせいというかお陰というか、それで内山真龍は見付天神の祭神を「矢の姫」=「玉依姫」と解いたわけです。「一言」も「加茂」も「葛城氏」「賀茂氏」に関係する名ですからね。

  ですが、私としては「一言」と言えば円大臣=津布良古王なんです。以前にも申しました通り、一言主神=円大臣=津布良古王なんです。

   ひょっとしたら、ツブラくんがお母さんである摩奴良比売のために建てた社が、後に「矢奈比売神社」(見付天神社)になったのではないかと私は思うのです。

   おっと…肝心の摩奴良比売の素性をお話できてませんね…では、次回に持ち越します。少々お待ちくださいませ…。

 

    

ワニ、拡散。

   はいどーも、今回は散り散りになってしまった和邇一族について語ります。

 

   都である大和を追い出された和邇の一族の皆さま。ある者達は山城国に隠れ住み、ある者達は大山守皇子と共に東国へ向かう。しかし、東へと進むにつれ、道中は厳しくなっていったのだろう。一部は山梨県側の富士山の麓に隠れ住み、更にある一部が神奈川県平塚市付近に根を下ろした。なぜ突然に神奈川県平塚市なのかと言うと…。平塚市の四ノ宮という所に「菟道稚郎子皇子」を御祭神として祀る「前鳥神社」(さきとりじんじゃ)なる神社があるからだ。

    菟道稚郎子皇子を主祭神と仰ぐ神社は京都の宇治上下神社とこの前鳥神社だけなんだそうで、特に前鳥神社は、関東で唯一「菟道稚郎子皇子」を祀る神社なんだとか…。

    しかーし!私めが申します通り、大山守皇子菟道稚郎子皇子であるならば「前鳥神社が唯一」ではないのです。…まぁそれは置いておいて…。

    大山守皇子と共に東へ逃げてきた和邇の一族の一部が、神奈川県平塚市四ノ宮に根を下ろし、皇子を祭神として祀ってきたのが前鳥神社なのだろう。その証拠に、ある伝説が残っているらしい。

    記紀に描かれる菟道稚郎子皇子は、兄の大雀皇子に大王位を譲り死んでしまうが、前鳥神社の伝説には、菟道稚郎子皇子は実は死んでおらず、密かにこの地に逃げてきた。というのがあるらしい。

    どうやら、とんでも説として無視されているようだが…私としては、よくぞ残っていてくれた!と言いたい程の伝説だった。

   伝説、伝承が歴史書の記紀にそぐわないからと切り捨てるのはいかがなものかと私は思う。何故、こんな伝説や伝承が残ったのかを考えるべきなのではないだろうか?

    前鳥神社の伝説が残された背景には、大山守皇子(=菟道稚郎子皇子)と共に東国へと亡命したが、泣く泣くこの地に留まる決意をした和邇一族の無念の想いが込められているようにも思える。

    

    さて、東国の和邇氏で特に有名(?)なのは、静岡県富士宮市にある、富士山本宮浅間大社を奉斎する「和邇部氏」ではないだろうか。

    ただ、この富士宮市浅間大社より山梨県富士吉田市浅間神社の方が創建が古いのだとか…。ひょっとしたら、富士宮市和邇氏は、大山守皇子と共に逃げてきた者達とは別の一団だったのかもしれない。

    こうして、各地に散らばっていった和邇一族…。各地で根を下ろし、邑や里をつくり、そして流通のネットワークとなっていったのかもしれない。それが後々の蘇我氏の財源にもなったのだろうか…。おっと、また妄想が炸裂してますね…。

    伝説、伝承を探せば大山守皇子と共に都落ちした和邇氏に関係する土地が見つかるかもしれませんねぇ。

   

   

    

 

   

伊勢神宮の祭神かも…?

    お久しぶりです。なかなか話が進まなくて申し訳ないです。今回は、伊勢神宮についてです。   

    皆々様もご存知、伊勢神宮は内宮、外宮と2つの宮があり、内宮には「天照大御神」外宮には「豊受大御神」が祀られています。

    しかし、元々のこの地の祭神は別の神様であった。というのはご存知でしょうか?いわゆる「ある一説によると…」です。元々のご祭神はこの地域の土地神様だとか、「天照大御神」という女神ではなく、男神だったとか…。
    嫌な予感がした人、正解です。そうです、この元々のご祭神というのが「大山守皇子」=「菟道稚郎子皇子」だと私は考えております。あ、どうかチャンネルはそのままでお願いします。
    以前語ったように、大山守皇子は父である応神天皇に山海を治めるように命じられていましたね。という事は…海人達を治め、海人達の乗る船も管理していた可能性があります。古代の流通の要は水路。即ち、海運や川運。
   最も重要な道具といえば船だ。
   船の材料といえば木…木材。
   木材を得るために、山を管理していたはず。
   国の発展のために流通を良くする。その為には、海を治め、山を治める。
   一体何故、記紀の中で大山守皇子は端役のような…いや、端役よりも酷い「叛逆者」とされたのか…。流通を掌握するという事は国を掌握するのと同じではないのだろうか?それこそが、次期天皇である「皇太子」の役目であったのではないか?
    少し話が逸れましたが…山海を治める大山守皇子。当然「木の国」と呼ばれる程の森林を有する紀伊半島をも治めていた事だろう。正確には、伊勢神宮のある「伊勢国」と「木の国」は別物ではあるが…。おそらく、山海の管掌者である大山守皇子は木を育てる林業にも関わっていたはずだ。そうして後に神格化されていった。
   神格化され、伊勢に祀られていたはずが、何故か祭神の上書きをされてしまったのだ。おそらく、祭神が大山守皇子のままでは困ると考えた者が、後に祭神のすげ替えを行ったに違いないだろう。
   そして、元々祀られていた大山守皇子の近くへと、妻である「摩奴良比賣」=「豊受大御神」を祀らせたのは円大臣こと津布良古王であった。
   歴史は勝者が作る。
   いずれ伊勢に祀られる父の存在は消されてしまうだろうと知っていたツブラくんは、伊勢にある仕掛けを施した。
    伊勢にもう一つの社を建て、2つの社で一対の、あたかも夫婦神のような神社に仕立てたのだ。後の世で、真実を見出してくれる事を願って…。この社の創建を雄略天皇に許可させると、それが外宮の創建説話に「雄略天皇の夢のお告げ」として残ったのだ。
   
   そして、もう一つ。伊勢に残る「伊勢津彦」なる人物の伝説である。
    
    伊勢国には伊勢津彦なる者が住んでいたが、後から来た天津神に国土を渡すよう要求され、断ったものの、最終的には国を追われることとなり、伊勢を離れる際、太陽のように光り輝きながら東へ去って行った…という伝説である。
    また別名を「出雲建子」というらしく、出雲との関係も伺わせる。
    さて、この伊勢津彦、伊勢を離れて東へ向かいどこへ行ったかというと、なんと天竜川を遡上し、諏訪へと向かったという。この伝説のおかげで、諏訪の建御名方神伊勢津彦を同一視する説もあるらしい。
    建御名方神伊勢津彦  説はとりあえずあっちに置いておくとして…。私が注目しているのが、伊勢津彦が東へと去っていった時の状況である。
    太陽のように光り輝いて…
   表現を多少大袈裟にしているのだとしたら、これは「篝火」ではないだろうか?
   船に大量の篝火を…もしくは、篝火を焚いた大量の船団だったとしたら…?
   なにを言いたいかというと…早い話が伊勢津彦大山守皇子であるという事だ。
   またか…と思われた方、その通りです。またなんです…。でも、ちょっと待ってくださいね、続きがありますので…。
    ちょっと思い出していただきたい。大山守皇子を祀る山形県の七所明神の伝説を…
 
    四世紀初頭、大山守命は次期天皇の座を辞退し、東路を目指して旅立ったという。このことを知った悪臣どもが、「大山守命は東国に下って軍勢を整え、都に攻め上るであろう」と言いふらしたため、天皇となった兄(仁徳(にんとく)天皇)の連臣(れんじん)(家臣団)から命を狙われるはめとなった。
 
    東国を目指した大山守命。そして、国を追い出され、東へ向かって去っていった伊勢津彦。2人の境遇がカブっているように見えるのは私だけ…でしょうけど…。しかし、大山守皇子が一族を率いて東国へ向かったとするなら…それはおそらく、海人達を治め従えた大山守皇子の氏族、和邇一族の大船団だったのではないだろうか。
    さぁ、いつも通り私の妄想劇が止まりませんよ。
    大船団で、しかも篝火を焚いていたとするならば、さぞかし目立った事だろう。なぜ大山守皇子はあえて目立った逃亡劇を演じたのか。
   理由は簡単、我が子を少しでも安全に逃がす為。
   大山守皇子はわざと目立った動きをして、兄である大雀皇子の軍を引きつけておき、その隙に妻「摩奴良比売」と息子の「津布良古王」を逃がそうとしたのだ。
 
   さて、大船団で東へ向かった和邇の一族は、伊勢津彦の伝説通り諏訪国へ向かったのか?
    残念ながらハッキリとした足跡はわからない…。しかし、大人数で丸々移動するには目立ち過ぎる。態勢を立て直すなら小規模な団体に分かれて行動した方が良いと判断しただろう。
   そうして和邇一族は各地に散らばっていったのではないだろうか…。
   突然ではあるが、山梨県富士吉田市浅間神社宮司家、宮下家に伝わるという「宮下文書」というものをご存知だろうか?
    この宮下家はなんと大山守皇子の子孫なんだとか…。しかし、私としては残念ながら「土形氏系図」がある以上、宮下家が本当に大山守皇子の子孫とは思えない。しかし、大山守皇子と共に逃げた和邇の一族の一部であったのではないかと思うのだ。つまり、宮下家は大山守皇子の直系の子孫ではなく、大山守皇子と共に都を追われた和邇一族の子孫であったのだ。
    都を追われ、散り散りとなった和邇一族はどこへ行ったか。
   少し長くなってしまったので、次回へ持ち越しと致しましょう。
   ではまた…。
 
 
 
   
    

葛城さんちのツブラくん

  だいぶ間が空いてしまいました。
  約3ヶ月ぶりでしょうか…
  今回は、大人になったツブラコくんを語ってみたいと思います。

 土形のツブラコくんは、葛城のツブラくんになりました。 
  さて、葛城さんちで修行を する事になったツブラくんは、すくすくと成長しました。日本書紀によると養父は「玉田宿禰」となりますが…古事記には「玉田宿禰」の記載がありません。
    ちなみに私は、日本書紀を全て否定するつもりはありません。小説をつくるのに事実を織り交ぜて作り上げるのと同じで、日本書紀も隠したいことを真実と嘘を使って巧妙に隠していると思っています。

  かなりすっ飛ばして行きますが…
  安康天皇の時、ツブラくんは大臣(おおおみ)になっていました。
  ある日、事件が起こりました。安康天皇が殺した大草香皇子の遺児「眉輪王」が、実の父親の死の真相を知り、自ら刃を手に取り天皇(大王)を殺してしまったのです。
   眉輪王のその後の行動は、記紀によって微妙に異なるが、最終的には葛城のツブラ大臣の元へと逃げて来ます。
   王位争いの末に父親を殺された境遇が自分と重なったのでしょう…ツブラくんは、眉輪王を見捨てる事ができず、匿うことにしたのです。
   しかし、後の雄略天皇となる「 大泊瀬幼武尊」との交渉の最中に眉輪王は自刃。
  ここからは、半分私の妄想が入りますのでご注意ください。
   眉輪王が葛城の元へ逃げ込んだおかげで、 大泊瀬幼武尊にとってはチャンス到来。天皇家を取り巻く有力豪族のなかで、とりわけ大きな存在であった葛城氏を潰す良いタイミングとなった事でしょう。葛城氏の筆頭、ツブラ大臣が眉輪王を無下に扱うことは無いだろうと、  大泊瀬幼武尊 にはわかっていた。
   むしろ眉輪王を誘導したのは 大泊瀬幼武尊であったのかもしれない。
   そうして、みごと葛城の里を手に入れ、葛城を滅ぼした……かに見えたことだろう。
    しかし、ツブラ大臣ことツブラくんの方が一枚上手であった。
   自らを死んだ様に見せかけて、あらかじめ用意してあった逃亡ルートを使い一旦身を隠したのだ。
    大泊瀬幼武尊の軍が葛城里から引き上げて、見張りの兵だけになるのを待つと、ツブラくんはこっそりと葛城の里人を葛城の地から逃がした。里人が姿を消した葛城里は、きっと異様な光景であったことだろう。見張りの兵から報告を受けた大泊瀬の大王は、自分の目で確かめるべく軍を率いて葛城里へ入り、そして葛城山に向かった。葛城一族が奉る神奈備山。そこに葛城一族が隠れていると踏んだのだろう。
    葛城山に入ると、大王軍と全く同じ恰好をした一団に遭遇…この一団こそがツブラ大臣率いる葛城一族だ。そしてこの場面が、記紀に登場する大初瀬大王と一言主神との邂逅である。
   なぜ、大王軍と同じ姿を装ったのか?おそらく大王=朝廷と同等の力を持っているとあえて誇示するためだろう。そうした上で、ツブラ大臣は大王と交渉したのだ。『臣下として再び取り立ててくれるなら、葛城の富と権力は大王(朝廷)のために振おう』と…しかし、大王側も叛逆者とした葛城を再び朝廷に戻すのはメンツに関わる…そうして出た和解案が『ツブラ大臣(一言主神)の四国(土佐国)への流罪』である。この頃の四国は完全には朝廷に従っていなかったのではないだろうか?(いつもの妄想が…)大王側(朝廷)からの案として『四国平定』がツブラ大臣の復帰条件であった。そしてこの条件に伴い『復帰に際しては新たな氏族として出仕する事』とした。
   さて…もうお気づきの方もいらっしゃるでしょうか?
    そうです『蘇我氏』の誕生です。
    う〜わ〜と思った方…とりあえず口を閉じましょう。
    「蘇我」は「我、蘇る」と読む。という事はご存知の方も多いかと思います。文字通り、葛城は「蘇我」として蘇った。だからこそ、後の世に蘇我氏が「葛城の里は、元は我々の土地」といって、朝廷に返還を求めたのだ。

   さて、話を少し戻します。
   以前、題材にした羽衣伝説。この伝説の主人公で8人の天女の1人「豊受能売命」は、伊勢神宮外宮の「豊受大神」とも言われております。
   伊勢神宮外宮の社伝に「雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ『丹波国の豊受の神を私の御饌の神として呼び寄せて欲しい』と言ったため外宮を創建した」とある。…何を言いたいのかと申しますと…
この創建説話、おそらくツブラ大臣…いえ、あえてツブラくんと呼びましょう。ツブラくんが雄略天皇との交渉で得たものではないかと思うのです。
    羽衣伝説がいつ頃作られたかはハッキリとしませんが、おそらく「豊受能売命」とは、ツブラくんの母である「摩奴良比売」の事ではないだろうか。
    …話が葛城から若干逸れてしまったので、続きは次回にしましょう。
   次回は伊勢神宮についてちょっと語ります…あ〜どこからか怒られそう…






    

   

葛城さんちと和邇さんち

  葛城氏と言えば…始祖とも言える「武内宿禰」だろうか。
  大山守皇子らの父「応神天皇」の忠臣として記紀に登場されてますね。
   葛城氏の初代といえば「葛城襲津彦」さんです。武内宿禰のお子さんで、応神天皇の母「神功皇后」の頃から仕えていたとか…
   対朝鮮半島外交の外交官的なイメージが強いですね。
  さて、この葛城襲津彦さんの娘「磐之姫」が、大山守皇子の兄弟で王位を争った「仁徳天皇」の奥さんとして記紀に登場しますが…何と言っても有名なのが、彼女の嫉妬心。夫である仁徳天皇が新たに妃を迎えるとわかると「実家に帰らせていただきます‼︎」と言って別居を強行した激しい気性の持ち主…とよく言われていますが、私は全く違うと考えてます。
   私説の通り大山守皇子が正当な皇太子ならば、後々の「大后」として後ろ盾に強い一族を選んだはず…つまり、磐之姫は元々、皇太子大山守皇子の妻であった。葛城氏と和邇氏は同盟関係にあったのだ。
   しかし、後の仁徳天皇である「大雀皇子」のクーデターによりその立場は一変した。
   なぜ大山守皇子を討ち、磐之姫を生かしておいたのか?
   ねらいは、葛城氏が本拠を置く「葛城山」だ。仁徳天皇が都を置いた「河内国
   「河内王朝」などと呼ばれていますが…その背後にそびえるのが葛城山。大雀皇子は、この葛城山を押さえておかなければならなかった。
    権勢を誇っていた和邇氏を追い落とすと同時に、葛城氏をも落とすにはリスクが高かっただろう。ならば…と葛城氏を取り込もうと画策したのだ。
    これは、私の妄想に近いが…
    大雀皇子は朝鮮半島に働きかけ、大和から葛城襲津彦を派遣せざるを得ない状況を作り出した。そうして手薄になった葛城と和邇を攻めたのだ。
   磐之姫は、父親が留守中に選択を迫られた。葛城を守る為に大雀皇子に従うか、同盟関係にある和邇と道を共にするか…
   磐之姫は葛城を守る為に大雀皇子に従うことにしたのだ。
   
山形県の七所明神の伝説には「大山守皇子は皇太子の地位を放棄して東国に下った」とある。おそらく、大山守皇子は戦いを避け一族総出で大和から逃げたのではないか。
   しかし、大和からは離れられないという者も居ただろう。その者達を葛城に預けたかもしれない。その筆頭が大山守皇子(菟道稚郎子)の妹姫「八田皇女」ではないだろうか?

  磐之姫は、 大山守皇子に妹姫を任されひた隠しにして守っていた。しかし、大雀皇子にその居所がバレてしまった。

   磐之姫は都が置かれた河内を飛び出し、実家である葛城へと向かう。わざわざ奈良山をぐるっと回って遠回りをして…途中で歌を詠んでいるが、もうそれら全てが当てつけのようにさえ思えるのだ。

   磐之姫は八田皇女を守ろうとした。しかし、仁徳はそれを許さず和邇氏の者を迫害した。それが伝令役として遣わされた和邇の口子なる人物。

   磐之姫が八田皇女と共に逃げた先の宮居の目の前で、見せしめの如く一族の者が傷めつけられれば…見て見ぬフリなどできないだろう。

  あくまで、私の妄想混じりの想像ですが…無いとも言い切れない話です。


  そういえば…津布良古王くんのホームステイの話を忘れてました。

  前置きが長ーくなりましたが、大山守皇子の息子の津布良古王くんは、お父さんの元奥さんの磐之姫さんを頼って葛城へとやってきたわけなんです。この時点でまさか葛城氏の首長になるとは思って無かったと思いますが…いや〜人生どこでどーなるかわからんもんですね。


    

   
   
   
  

土形さんちの事情

 さて、視線をちょっと大山守皇子と摩奴良比賣の子供さんに移します。
  土形氏の初代当主にあたるこの方…
  
「津布良古王」(つぶらこおう)

おそらく、まだ小さな頃に母親と共に逃げてきたのでしょうね。そしてこの小さな王子を守る為に隠れ里を造った。それが「土形里」です。
  ここで、ふと疑問が浮かんでくる。
  丹波国の「土形里」と同じ名前にしたのはなぜだろう?
  まだハッキリとした答えが出ていないが、羽衣伝説は裏切りの物語でもある。ひょっとして和邇の一族は誰かに裏切られて追われる身となったのではないだろうか?
   おそらく、大山守皇子こと菟道稚郎子皇子が皇太子の権利を放棄した際に、和邇一族弾圧の憂き目にあってしまったのかもしれない。
  そうして一族は散り散りとなり、かつて栄華を誇っていた和邇氏は滅亡寸前まで追い込まれたのでは無いだろうか?
  「土形里」の名は、裏切りを忘れない為と和邇氏であった証を残す為につけられたのかもしれない。

  少し脱線してしまったが…
  土形氏初代の名前「津布良古王」
  どこかで聞き覚えは無いだろうか?
  また、回りくどくなるのでさっさと言ってしまおう。
  記紀雄略天皇の項に出てくる「円大臣」こそが大山守皇子の子「津布良古王」その人である。
  って、また怪しい方向になって来たと言われてしまいそうな…でもこのまま進めまーす
  きっと、“年代が違うじゃないか⁉︎”と指摘されるでしょうが…
だがしかし‼︎正当な皇太子であった大山守皇子(菟道稚郎子皇子)を、謀叛人に仕立て上げてしまった記紀が記す年代を真正直に信じられるだろうか?
   いいや信じられないね!
   それに、雄略天皇が葛城山で自分とそっくりな一行に出会うという場面、記紀では「一言主神」との出会いだったと表現されているが、一言主神=円大臣と置き換えれば…
    雄略天皇と円大臣の間に血縁関係があるからこそ成し得たことではないか。

  ちょっと先走って雄略天皇の葛城山の話を持ってきてしまったが…

その前に、和邇氏の末裔でもある「津布良古王」がなぜ葛城氏の「円大臣」になったのか?

  まず経緯から推理すると…
  津布良古王くんは、幼少期を「土形里」で過ごし、成人した後(おそらく14、5歳〜)葛城氏へ預けられた。そして、当然というのか必然というのか…官僚の道へと進んで行った。こうして「円大臣」が出来上がったのだ。
  和邇氏の名前には「古」や「子」がよく使われるらしい。
  和邇氏の証である津布良古王の「古」は葛城氏に来た時にやめたのだろう。
  
   さて、津布良古王くんはなぜあえて隠れ里を出て、都に舞い戻ったのか?
   最初の目的は、父親を死に追いやった事件の真実を確かめる為だったのかもしれない。そうして、真実を知った津布良古王くん…いや、ツブラくんは政治家への道を選んだ。きっと気がついたのだろう、国を動かしているのは「大王」ではなく、権力を持つ周りの者だ…と。
   
    次は、ツブラくんがいわゆるホームステイ先になぜ「葛城氏」を選んだのかを考えてみよう。
   
  




とっ散らかってます

だんだん怪しさを増していくブログになってきました…

 ここらで整理しておきましょう。


・土形氏
   第15代応神天皇の皇子「大山守皇子」の子孫。静岡県掛川市南部土方地区に本拠があったとされる。

・土形里
   遠江国丹波国にあり、共に「羽衣伝説」を有する。

・マヌラヒメ
  摩奴良比賣 :土方氏系図によると、大山守皇子の妻 。王子と共に遠江国土形里に移住する。

   麻奴良比賣 :「出雲国風土記」によると、須佐男神の妻。稲田の女神。
 本名は「久志伊奈多美等與麻奴良比賣」

・大山守皇子
     記紀では、謀叛人として登場。
     私説では「菟道稚郎子皇子」と同一人物。

・羽衣伝説
    真実の歴史を伝えるための鍵となる物語。


…結局、怪しさは拭えないなぁ…
仕方がないのでこのまま突き進んで行きたいと思います。