彷徨う比売神

 今更な話ですが…私めの妄想と推論(と言っていいのか?)が暴走して妄想特急となってきてますね。

 なのでいっそ開き直ってしまおうかと…

    では参ります。

 

 静岡県浜松市

 静岡県西部にある政令指定都市であります。

 浜松と言えば、浜名湖、うなぎ、浜松祭り等々でしょうか。そんな浜松市の中心街、から少しだけ外れた所に「浜松八幡宮」という神社があります。

 古名は「許部神社(こべじんじゃ)」

 御由緒は、仁徳天皇時代。

 遠津淡海(おそらく、浜名湖だけでなく遠州灘も含む)の鎮静と海運守護の為に、海神の姫(娘)の1柱である「玉依姫」を祀り奉ったことに始まる神社です。

 この神社がどうかしたのか?とお思いでしょう。

 実はこの神社に祀られている「玉依姫」こそが土形氏の母「摩奴良比売」なのです!

 時代もぴったりなうえに、玉依姫とは‼︎

   海運守護なのだから当然では?とお思いの方!思い出して頂きたい。摩奴良比売は「矢(八)の姫」なのです。「矢の姫」とはすなわち賀茂の「玉依姫」です。

 「玉依姫」という名は記紀では、海幸彦山幸彦のシーンで、海神の姫として姉姫の「豊玉姫」と共に登場いたします。

 

 「玉依姫」とは霊力を宿した「巫女姫」のような役割で、物語の重要人物を育てる「母」であり「姉、妹」であり「妻」である。

 故に、各地の神社の本殿や摂社に祀られている。

 

 と、どこかの有識者の方々が仰いました。

 つまり、どこにでも居るような人物に見せかけて、実は重要な「キーパーソン」なのです。

 話が少し逸れましたが…

    許部神社の「玉依姫」=「摩奴良比売」であることは間違いないと、私は確信しております。

 神社の奉斎の時代が、仁徳天皇時代である事と、何より「許部神社」という名前。

 だいぶ前の記事ですが、大山守皇子が謀反の疑いをかけられ、都を追われ、後援氏族である和邇氏が大山守皇子と共に各地に離散して行った。という記事を載せました。

 何度も申し上げますが、大山守皇子は宇治稚郎子皇子です。

 宇治稚郎子皇子が暮らしていた宇治地域は古くは「許の国(このくに)」と呼ばれていた。と山城国風土記は証言しております。

 そうです。「許の国」の人々が、一族の長である大山守皇子の妻と子を守り、共に都から亡命し、浜松へやって来たのです。

 それ故に「許部」つまり、許の国の部民(←ここでは国民という意味でご理解ください)の社。ということで「許部神社」が斎き奉られたのではないだろうか。

 捏造とはいえ謀叛人の一族。都からは追手が差し向けられ、最終的に「土形の里」に落ち着くまではさぞかし苦難の道のりであった事でしょう。

 摩奴良比売の実家である諏訪の地を頼る事はできない。なぜなら、すでに夫である大山守皇子が向かっていたから…。

 おそらく、摩奴良比売一行が浜松の次に身を寄せた場所は磐田の見付だったのでしょう。見付を拠点にして、隠れ里に相応しい土地を探し求めたのではなかろうか…。

 舟を使い、沿岸を伝って河口を見つけては遡上する。そして見つけたのが、比治山に似た台形の山。そうです、後に「鶴翁山」と名付けられるその山は、第二の比治山でした。

 鶴翁山を神奈備山として、里を開き邑を作ったのでしょう。

 古老達は言いました。

 「昔はそこら辺を掘れば土器のカケラがよく出てきたものだ」

 

 なぜ、この土方の地はいまだに取るに足らない古い土地として扱われるのだろう?

 私めは少し、悔しい想いが胸の内に燻っています。

 わかっています。確たる物的証拠が、1600年前の冤罪を晴らす証拠となるものが出てこないからですね。

 

 私めの祖母はよく言っていました。

 「蛇はここの地の神様だから絶対に殺しちゃいかんよ」「川で赤い石を拾って持って帰っちゃいかん」

 

 さて、どこかで聞いたような文言ですね。

 

 今回はここまでにいたしましょう。

 では、また…

 

神々の愛児

 暑いですね。暦のうえでは秋らしいですが、暑いです。熱中症には十分に注意したいと思います。暑いです…

 

 

 さて、またまたいきなりですが…

    私には娘が1人おります。

 

 娘は発達障害で『自閉症』です。

 私めが「土形」について調べ始めたのは、娘が生まれるずっと前からでしたが、娘が自閉症と診断されてから気になっていた事がありました。

 それは…

 古代においての障害者について。

 身体障害に関しては、生まれつきの先天的なモノもあったでしょうが、戦争や病等で後天的に障害を持つ人も居たでしょう。しかし、発達障害は主に先天的なモノで、その多くは原因不明です。そして、障害の度合いも人によって違います。もちろん、現代と同じく身体障害と共に発達障害を持つ二重障害者も存在したと思います。

 現代であればこそ、様々な社会的支援を受けて生活していけてますが、これが古代であったなら…一体どんな生活を送っていただろう…とそんな事を時折考えてしまいます。

 そして、ふと思い出したのです。記紀にも、出雲風土記にも、実は発達障害を表しているのではと見られる記述がある事を…

    記紀で言うと、垂仁天皇と佐保姫の子「ホムツワケ皇子」

 出雲風土記で言うと「アジスキタカヒコネ」

 どちらも発語がかなり遅かったと言うエピソードがあります。アジスキタカヒコネに至っては、泣き出すとなかなか泣き止まず、あやすために梯子を登ったり降りたりさせていたとか…

    発語が遅く、同じ行動を何度も繰り返すのは発達障害の特徴と一致しています。故にこの2名は発達障害であったのではないか?と考える研究者の方も居たそうです。

 もちろん、本当に発達障害のことを記しているかは定かではありません。垂仁天皇の皇子「ホムツワケ」のエピソードは「呪い」として描かれていますし…。

 しかし私は思うのです。

 国の歴史書であり、天皇を持ち上げるための国書であるならば、輝かしい活躍を多く表現すればいいはずでは?

 確かに、天皇をヨイショしてばかりのエピソードでは嘘っぽくなってしまうだろうが、かといって登場人物が幼子のような行動をするエピソードが必要だろうか?

 答えはもちろん「必要」だった。です。

 なぜ必要だったのか?それは…その存在を知らしめたかったのではないか…と私は思うのです。

 出雲風土記にはアジスキタカヒコネの事を指して「神々の愛児」(かみがみのまなご)という表現を使っています。私の娘もそうですが、重度発達障害の子達は精神年齢が実年齢よりも幼い事が多いです。それ故に古代では「神々に最も近い子供の心のままで生きる人」という意味で表現されたのではないだろうか。

 生と死に最も近いのは「子供」と「老人」

 その神秘性に近いと思われたのではないでしょうか。

 更に言えば、発達障害者の中には、得意分野に特化して脅威の記憶力を有する者も多く居ます。その最たる例が「サヴァン症候群」を持つ者です。時折、その存在を思い出したかのように映画やドラマに、サヴァン症候群を持つ自閉症の登場人物が出たりしてますよね。

 彼の者達は1度見聞きしたモノを全て記憶する。或いは優れた演算処理能力を発揮する。しかし、それ以外の事に関しては常人より劣ってしまうことも…

   さて、何が言いたいのかと言いますと…

   古事記序文に登場致します「稗田阿礼」という人物。この者こそがサヴァン症候群を持つ人物だったのではないか?という事です。いえ…正確には「この者達」でしょうか。

 

 古事記序文

 歴史好きな方には有名な話でしょうが、古事記の序文には様々な疑惑が挙がっているそうです。

 この序文は、古事記成立のずっと後に作られた。

 稗田阿礼という人物は存在しない。

 等々

 

 古事記序文には

 

稗田阿礼という人物は一度見聞きしたものを全て覚えることができる。この者に、帝紀、旧事を覚えさせよ」と天武天皇の命が下ったが、それが中断されていたので再開させ、私、太安万侶稗田阿礼から聞き取り書き起こした。

 

 というようなことが記されております。えー…申し訳ございません。わかりやすくする為にかなりザックリとした文章になっておりますが…古事記序文の原文が気になる方は、各自検索してください。

 さて、それではなぜ古事記序文に疑惑が持ち上がるのか?

 それは「稗田阿礼」という者が何者なのかわからない、という事に尽きると思います。

 年齢らしき数字は記されているのに、名前からは性別も役職も全くわからない。

 しかし、先程も申しました通りこの人物が「サヴァン症候群」を持つものであったのなら…更に申しますと、記憶力に長けた者達が集団として存在していた…つまり、発達障害者達の中でも特に記憶力に特化した者を集め、訓練を行い、「語り部」としての集団を確立していたのではないだろうか?

 「語り部」とは、各部族などの生い立ちや成り立ちを語り継いでいく存在であり、それぞれのムラやクニの中で記憶力に長けた者が担ってきた役割でもあった。そんな「語り部」を役職として発展させたとしたら…

    「語り部」集団としての名前が「稗田阿礼」ならば、性別も官職も無いのも納得できる。

 

    正直なところ、ほぼ私の想像です。むしろ願望かもしれないです…

    今回はここまでにいたしましょう

 では、また…

 

 

    

   

神の名は〜土からの藤〜

 だいぶ前の投稿でしたが、土方を「ひじかた」と読ませる特殊性についての疑問をほんの少し語りました。覚えておられるでしょうか?

 …私めは…情けないことに少々忘れておりました……ネタが飛び飛びで申し訳ないです。

 

 まず「土」がなぜ「ひじ」と読むのか?

 「土師氏」の「はじ」からの転訛である。というのが最有力説と思われていますが、もう一つ別方向からの見解もあり、そちらをまずご紹介いたします。

 それは…

    「はに」→「はじ」

 「はに」とは土のことです

 そして、ここからもう少し発展させると…

 「はに」→「わに」→「和邇

 と転訛していくパターンもあるという説もあるようです。

 なにを言いたいかと申しますと、「土」の一族と「和邇氏」は同じ線状にあると言う事です。

 

 そして、「はじ」→「ひじ」→「ふじ」へと転訛をしていったのだと私めは考えているのです。

 以前、富士山の名前の由来について語りましたが…「比治山」=「ふじ山」に思い至った要因の一つに、比治山の羽衣伝説の主人公「豊受大神」の存在があります。

 この豊受大神を奥宮、真名井神社の御祭神として祀るのは、元伊勢籠神社であります。日本最古の系図を有する事で有名なこの神社は、昔話の浦島太郎の故郷としても名を馳せております。しかし、お話したいのはこれまたそこではなく…。

 籠神社の奥宮「真名井神社」に伝わる御祭神「豊受大神」についてです。

 伝承によると、真名井神社御神体は真名井から湧き出ずる水。そして豊受大神の御尊顔は「藤の花」だというのです。

 以前はホームページにも載っていたこの伝承は、なぜか今現在ホームページからは消滅しています。

 何故でしょう…謎です。

 

 「藤(ふじ)」は「土(ひじ)」からの転訛で、藤の花は羽衣伝説の主要人物である豊受大神そのものと言ってもいいモノです。そのせいだろうか?土方地区には「藤田」姓の家が多い。「ふじた」も「ひじかた」が訛ったものだろうと私は思う。

 ここで疑問を抱いた方はいらっしゃるだろうか?

 そう「藤」と出たら「藤原氏」を思い浮かべる人がほとんどだろう。しかし、以前にも語ったが藤原氏こそが歴史改竄の主謀であり実行者だ。つまり「藤」は奪われたのだ。

 ちなみに、藤原氏と関わりのある姓は「伊藤」や「加藤」など、「藤」の字が後ろについている姓である場合がほとんどらしい。「藤田」「藤木」「藤井」などは藤原氏との関わりは無く自然発生的に作られた姓であると考えられてきました。しかし「藤田」に関しては、「土方氏」から派生した「日置」「榛原」とは別のもう一つの派生氏族ではないだろうか?私にはそう思えてならない。

 更に、藤田に次いで多い氏名が「角替」だ。「角皆」という氏名もあるが。「つのがえ、つのがい」と読む。この姓のルーツは、福井県の「敦賀」にあると私は考えています。

 敦賀は、古くは「角鹿(つぬが)」と書き、記紀にも記されている。港があり、朝鮮半島から渡来してきたといわれる「ツヌガアラシト」の伝説もある。

 そうです。「つぬが」→「つのがえ」と転訛したのです。そして土形氏は元々は和邇氏という海人族。和邇氏は日本海側の海洋ルートに強い一族でした。 

 「藤田」「角替」姓が多く点在する土方地域の入山瀬という地区には、小字に「椿」という地名があります。椿は海洋民族にとって重要な植物で、椿油は舟造りに欠かせないものでした。その為なのか、海岸線付近には「椿」の字が付く地名が多いのだとか…そのうちのいくつかの地には和邇氏の痕跡があったとかで、和邇氏が椿を意図的に植えていたのではないか?とも…。まあ若干のこじつけ感はございますが、全く違うとも言い切れませんよね。

 

 少々脇道へ逸れてしまいましたが、「土」から 「藤」へ転訛し、「ふじ」とは「ふし」

 つまりは「不死」を意味する言葉でもある。

 「ひじかた」とは「ふしのかた」→「不死の方」という意味を含ませているのかもしれない。

 そして藤原氏は、「不死」の意味にあやかろうと「藤」の字を奪い「土形」を徹底的に歴史から消そうとしたのかもしれない…

 

   さてまたまた話が少し逸れます。そんなんばっかり…とおっしゃらないでくださいね…

 

  掛川の特産品の一つに「葛布」というものがあります。見た目は地味かもしれませんが、植物の「葛」の蔓から繊維を取り出し作る貴重な物です。

 この原料の「葛」

 昔はこの「葛蔓」と「藤蔓」は同じ物だと思われていたそうです。まあ流石に全く同じ植物だと思っていたかと言うと…違うと思いますが…ただ、自生していた葛蔓と藤の若い蔓を間違えた可能性はあります。更に繊維を加工した際に2つの植物の繊維が似ていた為に同じ種類のモノと勘違いしたのかもしれない。

 なにが言いたいのかと言いますと…藤と葛。土(藤)形氏(和邇氏)と葛城氏。2つの氏族を繋げたのは「津布良古王」(葛城の円大臣)なにやら深い縁を感じます。

 ひょっとしたら、藤=葛という考えも古代人が歴史上のことを暗に表現していたのかもしれませんね。…あくまで私めの憶測ですが…

 

今回はこれにて…では、また

語り部は伝う

 新型肺炎の大流行で世界的に大変ですね。

 何故かティッシュペーパーとトイレットペーパーが買えない状況にため息が止まりません。花粉症なのに…

 

   それはさておき。

 突然ですが「遠州七不思議」ってご存知でしょうか?

 遠州地方に伝わる不思議な伝説や伝承のことなんですが、実は七不思議と言っておきながら七つに収まっていないんです。

 いえ、言いたい事はそこではなくて…

    その遠州七不思議の一つ「桜ヶ池の大蛇」についてです。

 「桜ヶ池」とは、御前崎市佐倉にある池の事です。池のほとりには「池宮神社」という神社があります。

 平安時代末期、この池に「皇円阿闍梨」というお坊様がやって来ます。

 なんでも、56億何千万年後に現れるという弥勒菩薩に教えを乞う為、その身を蛇に変えて池の底で待つ。と言って自らその身を池に沈めたのだそうです。

 しかし、弟子の「法然上人」は納得できず「まだ師匠からの教えを全て得ておりません」と皇円阿闍梨を説得し、人の世へ戻ってもらおうとしました。が、説得叶わず。法然上人はせめて、という事で毎年秋の彼岸に赤飯をお櫃に納めた物を池の底に沈め、皇円阿闍梨に捧げる。と約束しました。

 後に「お櫃納め」という神事として毎年秋に行われる事となりました。

 何が不思議かと言うと、その納めたお櫃は絶対に浮いて来ない事。一説では、そのお櫃が、遠く離れた長野県の諏訪湖に浮かんでくるという。

 その為か地元では「諏訪湖と桜ヶ池は繋がっている」という伝説まであります。

 

 さて、注目していただきたいのは「皇円阿闍梨」という人物と「諏訪湖とつながる」という部分でしょうか…

    この「皇円阿闍梨」さん、ご存知の方は流石です。拍手です。

 そうです。このお方こそが歴史書扶桑略記」の著者でございます。そして、この「扶桑略記」によって「八幡神」=「応神天皇(誉田別命大王)」というイメージが広まったといわれています。

 扶桑略記は、神武天皇堀河天皇(1094年)までの国史、僧伝、寺院縁起等の仏教関連の記事を中心に多くの典籍を引用し、まとめられたものでした。

 皇円は、比叡山の僧侶でした。比叡山…古くから信仰の対象であり、平安遷都後、最澄天台宗を開いた日本仏教の聖地でもあります。平安京の鬼門に位置するため王城鎮護の山としての役割もありました。そんな場所だからこそ、国の重要な歴史書などが保管されていても不思議ではないですよね?

 皇円は、様々な書物からこの国の真実を知ったのではないでしょうか?

 実は…と言うほどでもないですが、この皇円阿闍梨の出自はなんと藤原氏だったのです。

 

 これは、私めの勘としか言いようがないのですが…

 土形氏の祖先は「応神天皇」に行き着く。その応神天皇をある意味有名にしたのは皇円阿闍梨が編纂した「扶桑略記

 そして、応神天皇の子孫である「土形氏」を徹底して隠したのは「藤原氏

 藤原氏全盛の頃に記紀は編纂され、その藤原氏の娘であり、日本で仏教を広めようとした「聖武天皇」の母「宮子姫」所縁の熊野三社は、土方の地を囲うように建立されている。

 そして、藤原氏の子孫である皇円阿闍梨は「土形」と所縁ある「比木里」近くの池宮神社にてその身を池に鎮めたのです。

   そうです…

  皇円阿闍梨は意図的にこの地を訪れている。

 更に私めの妄想を加えますと…

   様々な書物、歴史書等から、皇円は歴史の真実と藤原氏の所業に気がついた。

 皇円がこの地を訪れ、伝承を残したのは贖罪の意味もあったのかもしれない。

 

 ついでに申し上げますと…

    磐田市の見附天神社に残る人身御供の伝説も、実は皇円が創作し、里人らに伝え残したのかもしれない。

 元々の伝承は、土形の娘が都に住む貴人(柿本人麻呂)の元へ嫁いだという話であったはずだ。

 それがなぜ、化物への人身御供の話になったのか?

 土形の郷の「羽衣伝説」と同じで、一見するとただの昔話だが、その実は歴史の真実である。しかし真実をそのまま伝えるのはリスクがあったりもする。そして確実に伝え残す。という事を重視して、物語調にしたのではないだろうか?

 見附天神の人身御供の伝説も

 「サル」

 「白羽の矢」

 「乙女」

 のキーワードがある。「犬」は少しの間離れていてもらいましょう。では参ります。

 「サル」

 実は柿本人麻呂系図には「柿本佐留」という方がおります。人麻呂の兄であるとか、父であるとか言われてますが、実はハッキリわかってません。

 しかし私は、人麻呂本人であると考えております。数ある人麻呂の別名のなかで1番最初の名前であったのだろうと思います。

 「サル」から「ヒト」へ進化(成長)したので名前が変わったのでしょうか?それとも、本当の名前が「サル」であったものを後の世の人が敬意を込めて「ヒト」へと進化させたのでしょうか…

 そのサルの元へ「矢」で選ばれた「乙女」が捧げられる。

 おやおや?どこかで見たような字面ですね。

 そうですここにも「ヤオトメ」が出てきます。更に仕掛けがもう一つ。

 「白羽」

 実はこの文字、別の文字にも変換できるんです。

 「素羽」

 「素」とは白いという意味もあります。

 「因幡の白うさぎ」も古くは「素兎」と書いているんですよ。

 さて皆さまお気づきでしょうか?

 そうです「白羽の矢」とはつまり「素羽の八乙女」という意味もあるのです。「諏訪のヤオトメ」とは、土形氏の母「摩奴良姫」であります。

 土形の乙女(つまり摩奴良姫の子孫)が都に住む「サル」つまり柿本人麻呂のもとへと捧げられた。

 とまあ磐田市教育委員会からしたら「なに言ってんの⁇」と言われそうですが…

   また更に話を広げますと、猿を神使にしている神様をご存知ですか?

 「日吉神」

 比叡山延暦寺の守護神として崇敬を受けておりますが、延暦寺建立以前には「比叡山」は「日吉山」と呼ばれ、日吉神社が祀られておりました。日吉神とはすなわち「大山咋神」であります。

 さてこの辺で「まさか」と思われた方、素晴らしい。

 「大山咋神」の御神体として「鳴鏑矢」を祀るお社があるようで、そのせいなのか「丹塗り矢」伝説の賀茂の玉依姫の夫としての伝承もありますね。

 そうです、賀茂の玉依姫も「ヤオトメ」なんです!

 いい加減しつこいかなぁ…とは思ってます…ハイ

 ただですね…

   日吉山は琵琶湖の最南端。琵琶湖は日本海と都、更には太平洋側をも結ぶ、いわば水のバイパス道路なんです。古代において、琵琶湖を制していたとも言える一族はズバリ「和邇氏」です。和邇氏はその海運技術により当時の日本の物流を握っていたと言っても過言ではありません。そんな和邇氏の末裔でもある「大山守皇子(兎道稚郎子)」が日吉神社の神として祀られていてもおかしくはないでしょう?名前も似ているし…

   

    だいぶ脱線しましたが…つまり、全てはつながっているのです。

 どんな形にせよ、誰かが語り継いでいかなければここまでの推測にまで至らなかったと思います。

 伝説は語り部がかく語りき

 

 

   今回はこの辺で…では、また…

 

   

伝説はかく語りき

 新年ですね。

 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

 ホントに一年なんてアッという間です。こんな事を毎年言ってます。ため息が増えた気がします。

 暗くなるのでやめましょう。

 本題に入る前に少しだけ小話です。

 今年の干支はネズミでしたね。漢字1文字で「子」と書きます。

 この漢字、実は2つの漢字からできている事をご存知ですか?

 

 終わりを意味する「了」

 始まりを意味する「一」

 

 つまり「子」は、1文字で終わりと始まりを表現しています。

 生まれてきた子供の魂は、前世を生き抜き、終えた魂であり、またこれから新たな生(世)を始める。といった意味でもあるかもしれません。

 今年の「子年」は、苦しみが終わって喜びが始まる年であって欲しいですね。

 

 では本題へ戻ります。

 前回「羽衣伝説」は伊豫部馬養と柿本人麻呂

共謀して作り上げた。と申し上げました。

 私は、その他にも人麻呂は古事記に仕掛けを残したと考えております。

 出雲神話スサノオクシナダヒメ

 ツヌガアラシトの来日

 磐姫の家出

 言い出したらキリが無さそうなのでここらでやめておきます。

 

 人麻呂は、しばらく藤原氏の言いなりになりつつ頃合いを見計らっていました。

 都を抜け出す時を…

   転んでもタダでは起きない。という想いで風土記や日本各地の伝説伝承を残し、あるいは作り上げていったのだろうと私は考えています。

 藤原の監視下から逃れるために手を尽くしたことでしょう。

 しかし、人麻呂は妻である依紗羅姫の安全を確保していたはずです。その方法とは…

 「犬養三千代」を味方につけること。

 犬養三千代をご存知の方もいらっしゃるでしょう。そうです、藤原不比等の後妻となり、聖武天皇の妻となる光明皇后を生んだ方でございます。

 一説によると、聖武天皇の父「文武天皇」の乳母であったとか…

   実はこの犬養三千代さんも人質として藤原家に連れてこられた方だったのです。…という犬養三千代の人質説は、以前紹介させていただいた「関裕二」先生がおっしゃっていた説です。ここでは割愛いたしますが、気になる方はぜひ先生の本を読んでください。

 

 犬養三千代は元々、文武天皇の母、阿閇皇女(のちの元明天皇)の元へ出仕していたという。そう言った関係から文武天皇(珂瑠皇子)の乳母となり、優秀な女官ということで、藤原不比等に見初められた…というのが通説らしい。

 乳母ということは、同じ時期に自らも子を生んでいる事になる。数年の差異はあるだろうが、文武帝と同じ時期に人麻呂の娘、宮子姫も生まれていた。

 元明天皇

 柿本人麻呂

 犬養三千代

 ひょっとしたらこの三人には、何かしらの繋がりがあったのかもしれない。

 『古事記』完成も元明天皇の御世であった。

 

 西暦701年。

 文武帝の妃、宮子姫が男皇子を出産。後の「聖武天皇」となる「首皇子」である。

 同じ年、何故か皇太天皇(持統天皇)が周りの反対を押し切って「伊勢僥倖」を決行。私はこの伊勢僥倖が「柿本人麻呂の処刑」を持統天皇が見物に行ったのではないか?と考えております。

 人麻呂の不審な行動等に藤原不比等は怯え、人麻呂を捕らえ、そのまま処刑を断行しようとした。

 しかし、人麻呂は処刑されるフリをして、予め準備していた舟に乗りそのまま東へと向かったのだ。それはさながら、伝承にあった伊勢津彦の如く…

大船団に見せかけ、幾つものダミーの舟を用意していたかもしれない。

 伊勢津彦の伝承は、大山守皇子(兎道稚郎子)の都落ちの様であると以前語らせて頂きましたが、どちらにせよ、人麻呂は藤原不比等持統天皇を挑発していたのかもしれない。

 

 捕まるものか

 

 探せるものなら探してみよ

 

と…

  ひょっとしたら、藤原政権では東国との関係がよろしくなかったのではないか…

    だからこそ、容易に手を出せぬ東へと人麻呂は向かったのかもしれない。更に言えば、妻の実家である土形郷へと向かったのかもしれない。

 

 土形郷を囲うように創建された東の熊野三社はおよそ三年をかけて完成した。

 伝承による創建者は「長忌寸意吉麻呂」であるとされているが、私はこの名も人麻呂の別名であると考えております。その他にも「山部赤人」も人麻呂の別名ではないか?と疑っております。

 

 またも余談ですが

 高天神城の「姫井戸伝説」は当初は「羽衣伝説」として土形午(牛?)養と柿本人麻呂が土形の郷人らに伝えたのではないだろうか?

 それが、長い時を経て戦国時代を経験し、更には、掛川城主であった山内一豊と共に「土形家本家」が土佐国へと移動してしまった為に、伝説が変化してしまったのだ。それでも、郷人らは「伝説」を伝え残さねば…という想いと本能で、親から子へ孫へと「井戸」の伝説は伝えられたのかもしれない。

 …ところで、これまた私めの勝手な妄想ですが…

「土佐」という国名。はっきりとした由来はわかっていないそうです。…何を言おうとしているかわかった人、いますよねきっと…

    そうです。「土形」と関わりがあるのではないでしょうか?

 呆れてしまった人はこの辺でやめておいた方が良いです。

 

 土形氏の初代。そうです「津布良古王」くんは実は「円大臣」であり「一言主神」なんです。

 一言主神は、四国の土佐国へと移り祀られております。

 故に、「土佐」とは「土」の「佐」(補佐等の意)という国名になったのかもしれない。

 徳川家康がその史実を知り、土形氏を抱える山内一豊土佐国統治を命じた…というのはさすがに飛躍し過ぎでしょうかね……

    ただ、ちょっと偶然が過ぎる気がして…

 

    ちなみに、「秀真伝え」(ほつまつたえ)という古文書には、一言主神の両親は「スサノオ」と「クシナダヒメ」であると書かれているとか…

   ただ、残念なことにこの「秀真伝え」という古文書には「偽書」疑惑がついております。

 さてさて…真実はどこにあるやら…

    ではでは、そろそろこの辺で…

     また…

 

 

 

 

   

   

 

 

神の名は〜その名に宿し言霊

 先日、ショッキングな漫画を発見してしまいました。なんと、古事記を編纂したのは実は藤原不比等であったという物語の漫画です(ザックリ説明)  … ビックリです…

 

   何度も言いますが、古事記の編纂を主導したのは「柿本人麻呂」です。

 依頼主は「天武天皇」です。

 この件に関しても追々語るつもりです。

 

 さて、皆様は「名前」について考えた事はありますか?自分の名前について、人生で一度はその意味について考えたり、調べたりしたかと思います。

 こんな事を聞いた事はないですか?

 「名は、そのモノを縛る言霊である」

 この世の様々な名前には言霊が宿っているのです。言霊について長々と語るつもりはありませんが、私の推論は「名前」が重要なのです。ちなみに、地名もその土地の「名前」という事になります。

 

 私めがまず疑問に思った事は「土方」と書いて「ひじかた」と読ませる特殊性。これまでの先人たちの見解としては「土師氏に関係する氏族だったのであろう」という事でした。

 けれど、それだけで日本史のなかで重要人物である「応神天皇」の子孫が名乗るには「土師氏」との関係性は見えてこない。

 ある人は言いました。

 「土師氏は主に土器などの生産を司り、その製品などを運ぶ手段は船などを使ったため、山海の長として定められた大山守命皇子の子孫が「土」の字を冠する名を名乗るにはなんら不思議は無い」

 

 確かにそうかもしれない。

 けれども何か府に落ちない。

 そう思いある日ふと、ネット検索で「土形」と入力してみると…

    「羽衣伝説」に行き当たったのです。

 …同じ話を何度もスミマセン

 

 では、ここからは私の妄想と推論が入り混じった、物語のような話をいたしましょう。

 ウンザリと思われた方…今のうちにこれを読むのをやめた方が良いです。

 

 まず、時は遡り約1300年程昔。

 権力を手中に収めた藤原不比等は、幼き日嗣の皇子「首皇子」の為に、柿本人麻呂を脅して作らせた「古事記」を基に「日本書紀」を編纂しました。

 元々の古事記は、天武天皇の「各地域、各氏族の持つ伝承等をまとめあげ、選別し、この国の歴史を残す」という意図で編纂が進められていたはずです。

日本書紀」は実に皇族にとって都合の良い物語となっており、首皇子にとって良い教科書になるだろう、そうしなければと不比等は思っていたでしょう。

 ところが、人麻呂も黙って言われるがままに従う気はありません。分かる人にはわかるように、古事記を編纂していました。不比等は人麻呂の意図には気づかず、日本書紀編纂時、古事記から引用する部分も多くあった事でしょう。

 その代表的なものが「出雲神話」です。

 記紀の中にある「出雲神話」と「出雲風土記」の「出雲神話」には異なる部分があるのは有名な話です。それは、記紀編纂時に各地の神話や伝説をまとめる際に、天皇家にとって都合の良いようにまとめられたからだと言われておりました。

 確かに、王家に都合よく歴史書が作られるのは世の常であった事でしょう。

 ただ、私が見つけた違和感は小さなモノでした。

 それこそが「名前」だったんです。

 出雲神話と言えば…「八岐大蛇退治」の説話ですよね。この八岐大蛇退治の伝説でヒロインとして登場するのが「クシナダヒメ」です。

 記紀だけを読めば、この姫はスサノオによって櫛に変化させられるため、名前に「櫛(あるいはクシという言葉)」がつくのか…という印象が残ってしまうでしょう。

 しかし、出雲風土記では「久志伊奈太美等與麻奴良比賣命」と表記され、稲田の神としての特性を与えられている。更に言えば、「くしいなだみと(よ)あたわす」までが敬称であり「麻奴良比賣」が真の名であり、女神の特性〜本名までをしっかりと伝え残してしている。

   このクシナダヒメの本名である「マヌラヒメ」を記紀はなぜ省いたのか?

 それは、藤原氏にとって知られると都合の悪い名前だからです。そんな名前を人麻呂はあえて隠したのです。違和感を与える為に。

 既にお気づきでしょうが、何故「マヌラヒメ」が藤原氏にとって都合が悪い名前なのかというと…そうです。人質として連れてきた人麻呂の妻、土形氏の娘「依紗羅姫」のご先祖に当たる方と同じ名前だからです。

 藤原氏はこう考えた事でしょう…「マヌラヒメ」と「スサノオ」の子孫の系譜を知られてはならぬ。

 

 国の歴史書製作は、国の一大事業。それ故に関わる人の数もそれなりに居たはずで、関係者には多くの知識人有識者が名を連ねていた事でしょう。

 この一大事業に、柿本人麻呂と共に関わっていたであろうとされる人物に「伊豫部馬養」という者が挙げられています。

 そうです、丹後国風土記にこの国最古の「羽衣伝説」を伝え残した人物です。

 このお方も謎めいた方とされておりますが…私は気付いてしまいました。そう、この「ウマカイ」なる人物…実は土形氏出身の方なんです。…と言い切っちゃってますが、私めもハッキリと確証があるわけでもなく…少々見切り発車な部分が否めないのですが…

   スミマセン、言い訳です。

 というのも、「土方家系図」に「牛養(うしかい)」という方がいらっしゃいます。この方のご兄弟には「難波長柄宮」に仕えた方がいらっしゃいました。難波長柄京と言えば、孝徳天皇の時代です。

私はふとある考えが浮かびました。

 「牛」という字は書き間違いで、実際は「午」という字だったのではないか?

 「土方家系図」を新たに書き直す際に字を見間違えたか、書き間違えたかしたのではないか?

 「伊豫部馬養」という人物が丹後国風土記に「羽衣伝説」を残した際、既に高齢であったという推察がある。馬養は丹後国風土記に「羽衣伝説」を伝え残した後、次の任地である伊豫国へと赴任したらしい。

 伊豫国とは現愛媛県のことである。

 愛媛には、一級河川の「肱川」という川があります。古くは「比治川」と表記されていたとか…あ、と思われた方、そうです…「ひじ」なんです。穿った見方をしてしまいますよね。

 「土方」と関係している?

 つまり、馬養なる人物は「土方」なのではないか⁉︎

 

 ちなみに、愛媛県の向かいにある広島県には「比治山」という小高い丘があります。瀬戸内海の島々も挟んでいるので愛媛県から見えているかは…考えられませんが、しかしこれは本当に偶然なのでしょうか?

 広島の比治山に関して、言い伝え等あれば調べたいところなんですが、力及ばず…

 

   さて、だいぶ話がそれてしまったので元に戻しましょう。

 私の言いたかった事は…

    伊豫部馬養が柿本人麻呂と共謀して「羽衣伝説」を残した。

 という事なんです。

 「羽衣伝説」が鍵となって、藤原氏によって抹消された歴史が現れてくるのではないか…

    私にはそう思えてなりません。

 

 更に余談ですが…

   以前、掛川市教育委員会教育委員会

:その土地の遺跡、埋蔵文化財なども管理してらっしゃいます)の方に「高天神城趾の姫井戸の伝説」について、これは「羽衣伝説」ではないか?と話したトコロ…キッパリと否定されてしまいました。残念無念…

 

   長くなりましたが、続きは次回に…

   では、また…

 

神の名は〜数多ある名前

    先月の話ですが、 1か月ぶりにフリーのお休みができたので、約10年ぶりに映画館に行ってきました。

    緊張しました。今はチケットもタッチパネルで購入できるんですね…チケットのもぎりも…やってないんですね…ポップコーンのフレーバーが凄いことになってますね…浦島太郎状態を悟られまいと必死に平然としたフリをしてました。歳がわかってしまうでしょうが、口は閉じましょう。変な汗…かきました。

    観た映画は『天気の子』でした。面白かったです…

 

   さて、長々ダラダラとブログを続けてしまいましたが、そろそろ締めに入って行きたいと思っています……思ってはいるんです……がしかし、なかなか進みが遅くなると思います。今から謝ってしまいます。ごめんなさい…

 

   私めが地元の歴史に興味を持ち、調べ始めたのは今から12年前になります。まだまだ調査も考察も甘いですが、自分の故郷がなぜそこにあるのか?その理由が少しわかって、今はとても誇らしい気持ちです。

    思い起こせばそれは、小学校6年の時です。歴史の授業でした。

    「士農工商」の話を先生がしていた時、その場の空気を和ませようとしたのでしょう、先生は言いました「…なので、Yaotome の家は士農工商で言うと1番下になるって事だな!」

    当時ウチの実家は、自営業でお店を開いていました。田舎とはいえ、店が全くないわけではなく、ただそのクラスでは私めの家が唯一の商業の家だったのです。今の時代でこんな事言ったら大変ですよね。最近の教科書には「士農工商」というのは載っていないそうで…いやはや時代ですね…

   ただ、当時の自分はやはり納得できず、帰宅後祖父母に尋ねました「ウチのご先祖はどんな人物」か?

    しかし、実家での始祖様は曾祖父母という事で、あまり期待した答えではありませんでした。ですが、この時の会話が元で、祖父は親戚が集まる行事の度に古い系図を掘り起こそうとしてくれていました。それを元に家系図を作ろうとしていたようなのです。この事実も、祖父が亡くなって七回忌の法要の際に知りました。やはり、話をしなければ、聞かなければわからない事って多いですね。

   それはともかくとして、自分の家の歴史は浅かったと勝手に落ち込んだ私めは、ハタと思いつきました。一戸の家ではなく、町や村、つまり土地の歴史はどうだろう?と思い立ち調べ始めたのです。

   今ではすっかり郷土愛の権化と化しており、このブログでも妄想特急が走ってる部分が多いかと思われます。

   しかし、言い訳させていただけるなら、歴史をただの記録としてみるのではなく、人の生きてきた証として私は見ております。人が生きてきたのが歴史ならば、人の感情も歴史の一部ではないか?という想いでブログを綴っております。伝承や伝説には、人の想い、思惑、感情が含まれていると、私は勝手に感じております。

   前置きが長くて申し訳ありません。では参りましょう。

 

   とっても久々に、当ブログの過去の記事を読んでいました。

   ……なんという事でしょう…「摩奴良姫の実家を探せ!」が中途半端になっている⁉︎

   2年経ってやっと気づくという詰めの甘さ!というか頭のユルさ!というか…

   大山守命皇子と摩奴良姫の2人がいとこ同士での結婚である。というところで終わっていました。

   現代でもいとこ同士は婚姻できますが、古代の、しかも王族となると話が違ってくるようで、いとこ同士はもちろん腹違いの兄妹でも婚姻関係になれたようです。大王家ではそれが特に重要だったようで、記紀の中では大后は、大王と親戚関係にある者の中から特に選ばれたようです。妃(側室のようなもの)には有力豪族の娘などが入っていました。言い方は悪いですが、妃に入った娘が上手いこと大王の子供を授かれば、大王家との姻戚関係が築けるといった寸法です。

   血が近い者同士の婚姻は危険が伴う。古代の人もそれはわかっていたとは思います。しかし、大王家の神聖な血が濃ければ…その子は日継ぎ皇子(皇太子)として頂点により近くなる。

    私は勝手に「血の神聖」と呼んでいますが、大王家の血を神聖視していたのだろうと思います。

   和邇氏の大山守皇子と摩奴良姫。素性を辿ればどちらにも大王家の血が入っている。(表面上はですが)

   その2人の子である「津布良古王」は、おそらくもっとも大王の地位に近かったことでしょう。

   そして、そのように筋書きを組んだのはやはり最高権力に最も近かった「和邇」の一族だった。

   和邇氏は、最先端の技術を武器に国内の地位をぐんぐん上げていきます。しかし、昇りつめてしまえばあとは下るのみ…和邇氏は他の豪族に足元を掬われてしまうのでした。

 

   さて、ここでまたもや名前について語りたいと思います。以前にも語らせていただきました「摩奴良比売」という名前ですが…そう、出雲神話クシナダヒメの本名「久志伊奈太美等與麻奴良比賣」と同じ名前なんです。

クシナダヒメも「麻奴良比賣」

土形氏の母も「摩奴良比売」

   つまり、この2人の夫=スサノオ

ということになるのです‼︎

…若干の無理矢理感は否めませんが…

ただ、記紀で披露される出雲神話を見ると、スサノオクシナダヒメが2人1組のセットととして刷り込ませているように思えるのです。もうお分かりでしょうか…?

    そうです。

    大山守命皇子はスサノオの立ち位置なんです。

   大山守命皇子=菟道稚郎子皇子=スサノオ

  さぁだんだんと訳がわからなくなってきました。いつも下手くそな説明で申し訳ないです。

   残念ながら、また続きます。

   今回はこの辺で…では、また…