継ぐモノ、ツナグもの

   どーもです。

   今回はちょっと暗い話から入ります。苦手な方は飛ばして読んでくださいませ。

 

   1ヶ月程前に、私めの実の父親が他界しました。

    もう親が亡くなっていく歳なんだと実感しつつ、6年前に亡くなった祖父母の事も思い出していました。

   人が亡くなると、残された者は「もっと話をすればよかった、もっと何かしてあげれば良かった」と思うのですね。人それぞれとは思いますが、故人と近ければ近いほどそう思うのではないでしょうか?

   私は、家での父とは違う面を父の友人方から聞くにつれ、もう少し話をすればよかったと思いました。同時に、亡き祖父母とももっと話をすれば良かったと…。

    話をする、聞くというのは、それだけでもう歴史なのではないかとふと思ったのです。いわゆる「語り継ぐ」というものです。

   そうやって語り継がれてきたものが歴史の真実を語ってくれたりもするのです。

 

   さぁ本題へ入りましょう。

   みなさんは、日本史って曖昧なところが多いなぁと思ったりしませんか?

   例えば「邪馬台国」「古事記の作者」

「本当の初代天皇」「柿本人麻呂」等々…。というか、ほとんど私が興味のあるものばかりなんですが…

    さて、日本最古の歴史書として名の上がる「古事記日本書紀」なのですが…日本最古にも様々な定義があるようで、私もあまり難しい事は言えません。これからお話しする内容も…「それって妄想…」と言われそうなモノです。それでも、私は語り継がれたモノを信じてみようと思うのです。

 

   我が故郷「土方」で語り継がれてきたものといえば「高天神城の姫井戸」でしょうか。しかしこれは、以前にも語らせていただきました通り、実は「羽衣伝説」の原形だったのです。なぜ、羽衣伝説を残したのか?

    それは「土方」の土地を囲うように建てられた三つの神社の謎を解く事でわかってくるのです。

 「土方」を囲うように建っている三つの神社とは「熊野神社」です。

    掛川市、旧大須賀町にある「三熊野神社

    御前崎市にある「高松神社」

    掛川市上土方の「小笠神社」

    この三つの神社は、本家和歌山県の「熊野三山」の三つの社から勧請されており、それぞれ「本宮」「新宮」「那智宮」とされております。

    創建は701年、奈良時代です。

    何故、熊野三山遠州の、しかも「土方」にやってきたのか…。伝承には…文武天皇の妃である「宮子姫」がご懐妊の際、無事の出産を和歌山県の熊野の神々に祈願され、無事成就された御礼として東方の良き土地に熊野三社を創建された。それこそが上記の遠州の熊野三社である…とあります。

    そして、この宮子姫がお産みになった御子が後の「聖武天皇」であります。

   さて、少しややこしくなります…。

   この宮子姫の父親というのが「藤原不比等」であります。

    私はこの藤原不比等こそが、日本の歴史を迷宮入りさせた張本人だと私は考えております!

    何故なら、日本書記の編集者であった藤原不比等が歴史改竄を行ったからです‼︎

   なので、歴史系TV番組などで「とんでもない偉人」と紹介されたり、持ち上げられたりすると、私はいつも思うのです…(なにもわかっちゃいない番組だ‼︎)と。

    しかし、残念な事にこのような定説を裏返す大逆転的で決定的な証拠がまだ見つかっておらず、あるのは伝承等から推察されたものばかり…。それこそが藤原氏の狙いであったのかもしれません。

藤原氏に不都合な歴史的真実は切り捨てるべし。

   そうして史実改竄は行われたのです。

 

   あ〜失礼しました。つい熱く語り過ぎてしまって…

   さて、宮子姫の希望通り、熊野神社は都より東方の地にて鎮座坐しますこととなりましたが、その鎮座地選定はどのように行われたのか…?それについても伝承が残されていました。

   まず舟を三艘用意し、それぞれに熊野三社を表した幣をたて、東方へと流し、それぞれが流れ着いた場所に社を建てた。

   という事らしいのですが…

   おかしいと思いませんか?そんな都合良く三艘の舟が同じような場所に辿りつくでしょうか?特に那智宮の幣を立てた舟は、はじめ現掛川市大須賀の雨垂という土地に流れ着いたらしいのですが…その場所から何故か内陸部の小笠山に社を建てました。

    那智宮の幣なので、滝を表すならば山だろうと思ったのでしょうか?

    理由は想像できても、確定ができないのがもどかしいところです

    とにかく、この遠江の熊野三社は「土方」の地を囲うかの如く建てられているのです。

   さて、この熊野三社。一体誰が建立を進めたのか?…というのも、三社の由緒に共通して登場する一人の人物がいるのです。その名も「奥野左衛門是吉」

    正直なところ、誰だ⁇としか言いようがないのですが…三社の由緒によると、この人物が三艘の舟の着陸を見届け、選定地を定め、三社を建立し、後に神職についた人物なんだそうです。

    この是吉なる人物、名前はわかっているのに、文献等には一切出てこない謎の人物なんです。…というかそんな人ならいくらでもいるでしょ?…とお思いでしょうが、ちょっと待ってください。

   この三つの神社を建立する理由は、後に天皇となる、藤原氏系の皇子の無事誕生の祈願成就の為なんです。

    いわば藤原氏の、天皇外戚による権力掌握の第一歩となる皇子のための神社ですよ?なのに何故?神社建立という一大イベントが歴史書等々に一切載らないのか⁉︎

    私には、藤原氏の意図的な隠蔽により神社建立など無かった事にされた…という風に見えるのです。更に、念には念をという事でしょうか?

    同じ建立年(701年)に、藤原氏建立の寺として「道成寺」が建てられました。発起人は宮子姫の夫である「文武天皇」という事らしいですが、建立の責任者は「藤原道成」というこれまた実在するのかしないのかわからない人物です。

    言い出したらキリがないでしょうが、穿った見方をすると、この熊野三社建立を塗り潰すかのごとく道成寺を建立した。という事ではないだろうか。

   さて、途中から語りが本題から逸れているような感はありますが、長くなってきたのでこの辺りで次回へ持ち越しと致します…。では、また…

 

    

 

   

   

新年初登頂‼︎

   新年でございます。

   明けましておめでとうございます。

   今年は久々に地元に帰って高天神城跡のある「鶴翁山」に登って来ました。まぁ地元っ子は皆「高天神に登る」と言いますが…。

   今年は初日の出がとてもキレイに見ることができました。そして、初日の出を拝んだ後、本丸跡へと向かったところ…

  

  f:id:Yaotome223:20180102083358j:image

  まるで絵画のような富士山を見ることができました。

   実はこの富士山、冬場は空気が澄んでいるせいか、山頂に登らずとも高天神(鶴翁山)の麓からでも見えます。

   さすがは日本一の山。

 

   さて、「富士山」…なぜ「ふじ」と呼ばれるようになったのか?

   ご存知の方もいらっしゃるだろうと思いますが…「不死の山」…日本で1番高く死なずの山であるとか「不二の山」…二つとない山である。という意味あいを込めて名付けられたというのが一般的に知られている由来ではないでしょうか?

    しかし私は見つけてしまいました…そう、富士山の本当の由来を!

 

    以前お話しした通り、富士山信仰の総本山である富士山本宮浅間大社を奉斎するのは「和邇部氏」です。そして「土形氏」の祖「大山守皇子」の正体が「菟道稚郎子皇子」であるということから、「土形氏」は「和邇氏」の末裔であると申しあげました。

    そして、和邇氏の証として「羽衣伝説」をあげました。

    現在、最古の羽衣伝説とされているのが「丹後国風土記」に残された羽衣伝説である。この風土記の羽衣伝説と、高天神城に口伝のみで残る「姫井戸の伝説」が実は羽衣伝説であり、丹後風土記の羽衣伝説と同一のものである。というのが私めの唱える「土形氏は和邇氏の末裔である」説なのです。

    …なんだか陳腐な文になってしまいましたが…。

    では、上記の羽衣伝説と富士山の名前の由来がどう繋がるかと言いますと…丹後風土記の羽衣伝説の地である、京丹後市の磯砂山はかつて「比治山」と呼ばれておりました。この比治山の麓にあるいくつかの社の一つに「藤社神社」(ふじこそじんじゃ)というものがあります。この神社も羽衣伝説に関わる神社で、なんと天女を里から追い出した「和奈佐の夫婦」を祀る社があるとか!…いえいえ、言いたいのはそこではなく…この「藤社神社」という名前です。「藤社」の「フジ」は「比治山」の「ヒジ」が訛ったものなんだとか…。

   さぁお気づきでしょうか?

   そう、「富士山」の語源は「ヒジサン」である可能性が高いのです‼︎

   そして私めはもう一つ気がつきました。京丹後市の羽衣伝説の地「磯砂山(旧比治山)」と高天神城有する「鶴翁山」の二つの山の形がどちらも台形で似ている事に。

    大山守皇子(菟道稚郎子)が失脚し、その子孫(皇子の津布良古王)が亡命の地を探している時、偶然にも見つけた山が故郷にあるかの山に似ていた…。おそらく郷愁に駆られたのではないだろうか…?そうして、この地にもうひとつの「土形里」を作ったのだろうと思うのです。

   ちなみに、羽衣伝説が作られたのは津布良古王くんがお母さんと亡命してきた時代よりも後の世の事です。それについては後々またやります。

    

    「ヒジサン」→「フジサン」になり、奉斎を始めたのは「和邇氏」なんですね。おそらく、ただ滅びていくのではなく、なんとしてでもこの悔しい想いを伝え残したい!という強い想いがあったのではないでしょうか?

    

    富士山の由来は比治山に有り

 

    どうでしょう?新たな由来説として加えていただけないでしょうか…

 

    またまたちなみになんですが…「フジサン」にはもう一つの意味を込めて「不死山」というのもあるのではないかと思っております。

   それは大山守皇子菟道稚郎子皇子も、その子供である津布良古王=円大臣(一言主大神)も記紀の中では一度死んでいるのですが、各地に残る伝説では「実は生きている…」というモノがあり、「死なずの伝説」を持つ一族として伝え残していこうとしたのかなぁと思うのです。更には、和邇は海人族ですから、大陸からの最新の技術と共に最新の医術をも手に入れていたとしたら…今まで助からなかった命が助かって生き延びた!なんて事で「死なずの一族」としての噂も立っていたのではなかろうか?

   証拠があるわけではないので憶測ですが…

 

   ではでは今年もよろしくお願い致します。

   

    

よみがえりの一族

  どーもです。大変お久しぶりです。遅くて申し訳ないです。

   さて、只今放送中のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」に今度「高天神城」が登場します。

   「高天神城を征する者は遠州を征す」とまで言われるほどの重要な城…だったんですよ。今は…なんだかうら寂しい感じですが…。

   しかし、虎松役の菅田将暉くんが「高天神城」と言ってくれるだけで高天神城も報われる気がしますね。

   …何回も言ってくれないかなぁ…。

   …もう大河ドラマの撮影終わったらしいので無理ですけどね…わかってますけどね…。

   高天神城へおいでの際はぜひ、当時の処刑場跡の「首斬り塚」と、おそらく晒し首の場所であったであろう「千人塚」も見て行ってくださいませ。

 

   なんだかおどろおどろしくなって来たので話を元に戻します。

 

    前回までは、神話のような時代のお話でしたが…今回はちょっと時代が下って、古墳時代後期〜奈良時代の土形氏のお話にしましょう。

   土形氏初代「津布良古王」くんが都に上り、葛城円として大臣にまで出世し、そして葛城氏解散後(歴史書では滅亡)、再び「蘇我氏」として蘇った土形一族。葛城時代から変わらず大王家の陰日なたになって支えてきた…はずです。

   残念ながら、確たる証拠が無いためやはり私めの妄想と想像が入り混じってしまいます。

   「土形家系図」によると、推古天皇の御代にこの「土形」を名乗る事を許され「土形君」と呼ばれるようになったのです。

  推古天皇の御代と言えば、蘇我氏が台頭し、栄えていく頃でしょうか。更に、歴史的超有名人のかの「聖徳太子」がご活躍された頃です。そんな推古朝に仕え、位も「冠位十二階」第4位にあたる「小仁」を与えられ、派生氏族「日置氏」はおそらく聖徳太子のお子さんの1人の後見についたのでしょう。太子のお子さんの一人に「日置王」というお方がおられます。

   歴史書等にはほとんど現れない「土形氏」

   全くの陰の存在となってしまったのか…?

  今回は短いですがここまで…

  では、また…

 

 

   

摩奴良比売の実家を探せ!2

   お久しぶりでございます。

    大変長らくお待たせ致しました。かなりの期間更新できず申し訳ないです。

    それにしても…思ったより時間て足りないものですね。気がつくと既に1日が終わってるんです。

    ま、私のいい訳は要らないですよね。

    では早速始めましょう。

 

   前回、磐田市の見付天神社(矢奈比賣神社)と土形氏の生みの親「摩奴良比売」とは実は繋がりがあるのでは?という風にお話させていただきました。

    では、摩奴良比売の実家が磐田の見付であるのか…というとそうではなく…結果から申し上げます。

   摩奴良比売の実家は磐田市よりも北のまた北、長野県の「諏訪湖」なのです。

    はぁ⁈という方、少々お待ちくださいね。やっぱり‼︎という方、素晴らしいです。

    何故「諏訪湖」なのか?

    これは、古代史にハマるキッカケをくださった関裕二先生の著書にもありますが…

    諏訪湖の守護神「建御名方神」の母とされる「奴奈川比売」が実は、「神功皇后」である。

    という説があるからなんです。

    さぁワケがわからなくなりますよ〜ついてきてくださいね。

   奴奈川姫=神功皇后…意味わからん⁇

   という感じでしょうか…。

   記紀には、神功皇后はまるで、神がかった女武将のように勇ましく描かれています。実際に勇ましい方だったのかもしれません。大和国側から見て、逆賊である九州地方をあっという間に平定し、朝鮮半島の一部まで掌握してしまうのですから。

   関裕二先生の説でいうと、この勇ましさが「仇(あだ)」となったのでしょう。九州を平らげ、朝鮮半島まで手を伸ばして一部は掌握してしまった。となると、逆に大和国が危うくなるのではないか?と、神功皇后を派遣した(正確には仲哀天皇を派遣したのだが…)大和国側は疑心暗鬼に捉われたのです。

    神功皇后が優秀すぎて、いつか大和国を脅かす!と疑いを持つようになってしまった大和国から、出る杭は打たれるが如く神功皇后追討令が出てしまったのです。哀れ、神功皇后は味方であったはずの大和国から追われる身となってしまいました。

    北九州に拠点を置いていた神功皇后大和国に、まずその拠点から攻められたのです。味方からの突然の襲撃に神功皇后はさぞや驚き、そして絶望した事でしょう…。裏切られた神功皇后は、大和国の追捕の手から逃れるため、まだ幼子だった皇子と別れて九州を離脱。逃亡生活が始まりました。

    という事で、少々割愛しますが…この神功皇后の逃亡ルートと北陸地方等に残る奴奈川姫の伝説が不思議と重なっていく…という事で、そこから 神功皇后=奴奈川姫であるという説が浮上したわけです。

   そして、伝説では奴奈川姫には男御子がおり、その子供の名が「建御名方」なのです。

    さて、ここで疑問点が…奴奈川姫が神功皇后ならば、建御名方は誰なのか?

    神功皇后の息子といえば…胎中天皇応神天皇」が有名ですが、神功皇后にはもう1人息子がいるのです。

    その名も「ホムヤワケ命」

    応神天皇の兄とされていますが、伝承等もあまり無く、弟に比べて地味な存在となってしまっています。…が!この「ホムヤワケ命」こそが「建御名方」であると私は考えております。…って同じことを考えていた方もいらっしゃったとは思いますが……。

   そして、この建御名方こそが「摩奴良比売」の父親であると私は確信しております。

   何故なら、建御名方神が「出雲神」であるからです。

   建御名方神の 存在は古事記先代旧事本紀の2つの文書に記載されており、もともとは諏訪地方の地元神ではないかとの説があるが定かではない。しかし、建御名方神の特性は開拓神。諏訪とは違う別の場所から移住してきたという説もまたあるのです。では、建御名方神=ホムヤワケ命は何処の地よりやって来たのか?

   それは、古事記の伝説の通り「出雲国」からやって来たのです。

   古事記には、天つ神への国譲りを拒み勝負にも負けてしまった建御名方神は、逃亡の末に素羽国の諏訪湖にたどり着き、追って来た天つ神に「二度とこの地から離れない」と誓い諏訪湖に落ち着いた…とあります。

   私は、この逃亡劇、ひょっとしたら母である奴奈川姫=神功皇后と共に行動していた建御名方=ホムヤワケ皇子の逃亡劇が元になっているのではないか?と考えております。ちなみに、奴奈川姫と建御名方の親子関係について記しているのは、先代旧事本紀である。

    さて、奴奈川姫=神功皇后が息子を伴い諏訪へと落ち延びた末にどうなったか…?

   おそらく、諏訪にて大和軍に追いつかれ、捕縛されたのではないだろうか?

   そして、神功皇后は処刑され、息子のホムヤワケ皇子は諏訪にて封ぜられ、生涯、諏訪から離れる事は許されない身となったのだ。

   そんなホムヤワケ皇子=建御名方の娘として生まれたのが「摩奴良比売」である。

   さて、お気づきの方もいらっしゃるだろうか?

    そうです、土形氏の親である大山守皇子と摩奴良比売はいとこ同士の夫婦だったのです‼︎

    それがどーした⁇と言われそうですね。説明していきたところですが…申し訳ございません、今回はここまでです。

ではまた…

    

    

 

摩奴良比売の実家を探せ

    さて、今回は大山守皇子の2番目の奥さんである「摩奴良比売」について語りたいと思います。

    土形氏系図に「遠淡海国造女〜云々」と書かれていたため、遠江国の国造家から大王への従属の証として差し出された姫…と思われてきたようですが、実は違うのです。

   何度も言いますが、大山守皇子は本名が菟道稚郎子皇子で、皇太子であった。皇太子の元にど田舎の娘っこが嫁ぐのは、相当なツテでも無いかぎり難しいのではなかろうか?

    あるいは、誰もが噂するような相当な美人であったため、差し出されたとか?

   しかし、大山守皇子を謀叛人として描く記紀には大山守皇子の「妻」どころか子供についてすら詳しくは書かれていない…。それは何故か?答えは簡単、記紀編纂者にとってそれが不都合な真実だからだ。

    またか…とため息をついた方。わかりますよ。「不都合な真実」とか言っとけば、なんでもまかり通ると思ってんなコイツ…。と思いますよね。そーなんです、若干思ってます。でもちょっと我慢してくださいね、後々わかってきますので…。

   さて、話を戻して…。

   以前にも申しました通り、この「摩奴良比売」と言う名前。かの有名な「出雲神話」に出てくる「クシナダヒメ」の本名と同じ名前なのです。

   

   クシイナダミトアタワスマヌラヒメ

   久志伊奈太美等與麻奴良比賣

 

    「與」は「アタワス」と読む場合と「ヨ」と読む場合があるようです。

 

    なぜ遠江国の姫に、出雲国の女神の名前を名付けられたのか?歴史書が言う通り、遠江国造と出雲国造が同じ祖先を持つからというだけでは、女神の名前なんて畏れ多くて付けられないような気もしますが…。

    神の名前をつけるくらいだから、この「摩奴良比売」の親はきっと何かを伝え残したかったのではないだろか?

    あるいは、子孫があえて神と同じ名前にして系図に残し、一族の伝説や伝承を残し易くしたかったのか…。

    名付けの意味についてはとりあえずあっちに置く事にして、摩奴良比売の素性についてお話ししたいと思います。けっこうなややこしさなので覚悟してくださいね。

 

   大山守皇子の妻、摩奴良比売とその子供である津布良古王の母子が、亡命の果てに辿り着いた土形里から西へ西へと目を向けると、かつて遠江国の国府が置かれたとされる磐田市見付があります。

    東海道見付宿

    東海道の宿場街があったとされる「見付」という土地には創建年代のハッキリしない「見付天神社」という神社があります。

    この神社には、人身御供の習わしがあった。しかし、強制的に強いられるものが長続きするはずもなく、結果的に人身御供を村人に要求していた妖怪は倒され、人々を苦しめていた人身御供の習わしは解消されることとなった。

   おや?と思われた方、いらっしゃいますでしょうか?

    そうです「人身御供伝説」なんです。

    記紀の中の「出雲神話」にもありましたね「人身御供」のお話が…。そのお話の中心人物の1人が「クシナダヒメ」です。

    クシナダヒメは8番目の姫でした。

   

     話を少し戻しまして、見付天神社の御祭神について話をしましょう。

    実は、見付天神社の正式名称は「矢奈比売神社」です。姫神主祭神とし、あとから天神様(菅原道真公)を祀っていたようなのですが…。主祭神である「矢奈比売」についてはよくわかっていないらしいのです。

    しかし‼︎ 私は見つけてしまいました。江戸時代の国学者「内山真龍」が失われた「遠江国風土記」を再編纂しようと、各地に残る伝説、伝承を調べて自らの見解も残していたらしく、その中に見付天神社=矢奈比売神社についても自らの見解を述べていたのです。

   

    「矢奈比売」というのは「矢の姫」が訛った名前ではないだろうか。「矢の姫」とは即ち、賀茂伝説の「玉依姫」のことである。

 

   つまり、磐田市見付の見付天神社の御祭神の正体は「玉依姫」であると言っているのである。

    見付天神社の祭神がわかったところでそれが何なんだ?とお思いでしょうか?

    そーですね、一見関係の無い話のようですが…一つ頭に置いて頂きたい。それは…「古代人は言葉遊びが好き」なんです。その最たるモノが「和歌」です。大昔、文字が伝わる前は「音」が重要だったのです。

    何が言いたいのかと申しますと…。

    国学者、内山真龍は「矢奈比売」を「矢の姫」と解いた。

   ならば「矢の姫」は「八(ヤ)の姫」でもあるのでは無いだろうか?

   「八の姫」と言えば…皆さんもうお判りですね?そう、「八の姫」=「クシナダヒメ」=「マヌラヒメ」なんです。

    つまり、見付天神社の祭神「矢奈比売」とは大山守皇子の妻「摩奴良比売」だったのです。

    では、摩奴良比売は磐田の見付出身だったのか〜。と思われた方、残念。半分不正解です。何故半分かはまたまた後々わかります。…そんなんばっかりでスミマセン…。

   さて、少しばかり道をはみ出して…。

   見付周辺にある地名に「一言」と「加茂」があります。この二つの地名は隣同士なので、そのせいというかお陰というか、それで内山真龍は見付天神の祭神を「矢の姫」=「玉依姫」と解いたわけです。「一言」も「加茂」も「葛城氏」「賀茂氏」に関係する名ですからね。

  ですが、私としては「一言」と言えば円大臣=津布良古王なんです。以前にも申しました通り、一言主神=円大臣=津布良古王なんです。

   ひょっとしたら、ツブラくんがお母さんである摩奴良比売のために建てた社が、後に「矢奈比売神社」(見付天神社)になったのではないかと私は思うのです。

   おっと…肝心の摩奴良比売の素性をお話できてませんね…では、次回に持ち越します。少々お待ちくださいませ…。

 

    

ワニ、拡散。

   はいどーも、今回は散り散りになってしまった和邇一族について語ります。

 

   都である大和を追い出された和邇の一族の皆さま。ある者達は山城国に隠れ住み、ある者達は大山守皇子と共に東国へ向かう。しかし、東へと進むにつれ、道中は厳しくなっていったのだろう。一部は山梨県側の富士山の麓に隠れ住み、更にある一部が神奈川県平塚市付近に根を下ろした。なぜ突然に神奈川県平塚市なのかと言うと…。平塚市の四ノ宮という所に「菟道稚郎子皇子」を御祭神として祀る「前鳥神社」(さきとりじんじゃ)なる神社があるからだ。

    菟道稚郎子皇子を主祭神と仰ぐ神社は京都の宇治上下神社とこの前鳥神社だけなんだそうで、特に前鳥神社は、関東で唯一「菟道稚郎子皇子」を祀る神社なんだとか…。

    しかーし!私めが申します通り、大山守皇子菟道稚郎子皇子であるならば「前鳥神社が唯一」ではないのです。…まぁそれは置いておいて…。

    大山守皇子と共に東へ逃げてきた和邇の一族の一部が、神奈川県平塚市四ノ宮に根を下ろし、皇子を祭神として祀ってきたのが前鳥神社なのだろう。その証拠に、ある伝説が残っているらしい。

    記紀に描かれる菟道稚郎子皇子は、兄の大雀皇子に大王位を譲り死んでしまうが、前鳥神社の伝説には、菟道稚郎子皇子は実は死んでおらず、密かにこの地に逃げてきた。というのがあるらしい。

    どうやら、とんでも説として無視されているようだが…私としては、よくぞ残っていてくれた!と言いたい程の伝説だった。

   伝説、伝承が歴史書の記紀にそぐわないからと切り捨てるのはいかがなものかと私は思う。何故、こんな伝説や伝承が残ったのかを考えるべきなのではないだろうか?

    前鳥神社の伝説が残された背景には、大山守皇子(=菟道稚郎子皇子)と共に東国へと亡命したが、泣く泣くこの地に留まる決意をした和邇一族の無念の想いが込められているようにも思える。

    

    さて、東国の和邇氏で特に有名(?)なのは、静岡県富士宮市にある、富士山本宮浅間大社を奉斎する「和邇部氏」ではないだろうか。

    ただ、この富士宮市浅間大社より山梨県富士吉田市浅間神社の方が創建が古いのだとか…。ひょっとしたら、富士宮市和邇氏は、大山守皇子と共に逃げてきた者達とは別の一団だったのかもしれない。

    こうして、各地に散らばっていった和邇一族…。各地で根を下ろし、邑や里をつくり、そして流通のネットワークとなっていったのかもしれない。それが後々の蘇我氏の財源にもなったのだろうか…。おっと、また妄想が炸裂してますね…。

    伝説、伝承を探せば大山守皇子と共に都落ちした和邇氏に関係する土地が見つかるかもしれませんねぇ。

   

   

    

 

   

伊勢神宮の祭神かも…?

    お久しぶりです。なかなか話が進まなくて申し訳ないです。今回は、伊勢神宮についてです。   

    皆々様もご存知、伊勢神宮は内宮、外宮と2つの宮があり、内宮には「天照大御神」外宮には「豊受大御神」が祀られています。

    しかし、元々のこの地の祭神は別の神様であった。というのはご存知でしょうか?いわゆる「ある一説によると…」です。元々のご祭神はこの地域の土地神様だとか、「天照大御神」という女神ではなく、男神だったとか…。
    嫌な予感がした人、正解です。そうです、この元々のご祭神というのが「大山守皇子」=「菟道稚郎子皇子」だと私は考えております。あ、どうかチャンネルはそのままでお願いします。
    以前語ったように、大山守皇子は父である応神天皇に山海を治めるように命じられていましたね。という事は…海人達を治め、海人達の乗る船も管理していた可能性があります。古代の流通の要は水路。即ち、海運や川運。
   最も重要な道具といえば船だ。
   船の材料といえば木…木材。
   木材を得るために、山を管理していたはず。
   国の発展のために流通を良くする。その為には、海を治め、山を治める。
   一体何故、記紀の中で大山守皇子は端役のような…いや、端役よりも酷い「叛逆者」とされたのか…。流通を掌握するという事は国を掌握するのと同じではないのだろうか?それこそが、次期天皇である「皇太子」の役目であったのではないか?
    少し話が逸れましたが…山海を治める大山守皇子。当然「木の国」と呼ばれる程の森林を有する紀伊半島をも治めていた事だろう。正確には、伊勢神宮のある「伊勢国」と「木の国」は別物ではあるが…。おそらく、山海の管掌者である大山守皇子は木を育てる林業にも関わっていたはずだ。そうして後に神格化されていった。
   神格化され、伊勢に祀られていたはずが、何故か祭神の上書きをされてしまったのだ。おそらく、祭神が大山守皇子のままでは困ると考えた者が、後に祭神のすげ替えを行ったに違いないだろう。
   そして、元々祀られていた大山守皇子の近くへと、妻である「摩奴良比賣」=「豊受大御神」を祀らせたのは円大臣こと津布良古王であった。
   歴史は勝者が作る。
   いずれ伊勢に祀られる父の存在は消されてしまうだろうと知っていたツブラくんは、伊勢にある仕掛けを施した。
    伊勢にもう一つの社を建て、2つの社で一対の、あたかも夫婦神のような神社に仕立てたのだ。後の世で、真実を見出してくれる事を願って…。この社の創建を雄略天皇に許可させると、それが外宮の創建説話に「雄略天皇の夢のお告げ」として残ったのだ。
   
   そして、もう一つ。伊勢に残る「伊勢津彦」なる人物の伝説である。
    
    伊勢国には伊勢津彦なる者が住んでいたが、後から来た天津神に国土を渡すよう要求され、断ったものの、最終的には国を追われることとなり、伊勢を離れる際、太陽のように光り輝きながら東へ去って行った…という伝説である。
    また別名を「出雲建子」というらしく、出雲との関係も伺わせる。
    さて、この伊勢津彦、伊勢を離れて東へ向かいどこへ行ったかというと、なんと天竜川を遡上し、諏訪へと向かったという。この伝説のおかげで、諏訪の建御名方神伊勢津彦を同一視する説もあるらしい。
    建御名方神伊勢津彦  説はとりあえずあっちに置いておくとして…。私が注目しているのが、伊勢津彦が東へと去っていった時の状況である。
    太陽のように光り輝いて…
   表現を多少大袈裟にしているのだとしたら、これは「篝火」ではないだろうか?
   船に大量の篝火を…もしくは、篝火を焚いた大量の船団だったとしたら…?
   なにを言いたいかというと…早い話が伊勢津彦大山守皇子であるという事だ。
   またか…と思われた方、その通りです。またなんです…。でも、ちょっと待ってくださいね、続きがありますので…。
    ちょっと思い出していただきたい。大山守皇子を祀る山形県の七所明神の伝説を…
 
    四世紀初頭、大山守命は次期天皇の座を辞退し、東路を目指して旅立ったという。このことを知った悪臣どもが、「大山守命は東国に下って軍勢を整え、都に攻め上るであろう」と言いふらしたため、天皇となった兄(仁徳(にんとく)天皇)の連臣(れんじん)(家臣団)から命を狙われるはめとなった。
 
    東国を目指した大山守命。そして、国を追い出され、東へ向かって去っていった伊勢津彦。2人の境遇がカブっているように見えるのは私だけ…でしょうけど…。しかし、大山守皇子が一族を率いて東国へ向かったとするなら…それはおそらく、海人達を治め従えた大山守皇子の氏族、和邇一族の大船団だったのではないだろうか。
    さぁ、いつも通り私の妄想劇が止まりませんよ。
    大船団で、しかも篝火を焚いていたとするならば、さぞかし目立った事だろう。なぜ大山守皇子はあえて目立った逃亡劇を演じたのか。
   理由は簡単、我が子を少しでも安全に逃がす為。
   大山守皇子はわざと目立った動きをして、兄である大雀皇子の軍を引きつけておき、その隙に妻「摩奴良比売」と息子の「津布良古王」を逃がそうとしたのだ。
 
   さて、大船団で東へ向かった和邇の一族は、伊勢津彦の伝説通り諏訪国へ向かったのか?
    残念ながらハッキリとした足跡はわからない…。しかし、大人数で丸々移動するには目立ち過ぎる。態勢を立て直すなら小規模な団体に分かれて行動した方が良いと判断しただろう。
   そうして和邇一族は各地に散らばっていったのではないだろうか…。
   突然ではあるが、山梨県富士吉田市浅間神社宮司家、宮下家に伝わるという「宮下文書」というものをご存知だろうか?
    この宮下家はなんと大山守皇子の子孫なんだとか…。しかし、私としては残念ながら「土形氏系図」がある以上、宮下家が本当に大山守皇子の子孫とは思えない。しかし、大山守皇子と共に逃げた和邇の一族の一部であったのではないかと思うのだ。つまり、宮下家は大山守皇子の直系の子孫ではなく、大山守皇子と共に都を追われた和邇一族の子孫であったのだ。
    都を追われ、散り散りとなった和邇一族はどこへ行ったか。
   少し長くなってしまったので、次回へ持ち越しと致しましょう。
   ではまた…。