神の名は〜数多ある名前

    先月の話ですが、 1か月ぶりにフリーのお休みができたので、約10年ぶりに映画館に行ってきました。

    緊張しました。今はチケットもタッチパネルで購入できるんですね…チケットのもぎりも…やってないんですね…ポップコーンのフレーバーが凄いことになってますね…浦島太郎状態を悟られまいと必死に平然としたフリをしてました。歳がわかってしまうでしょうが、口は閉じましょう。変な汗…かきました。

    観た映画は『天気の子』でした。面白かったです…

 

   さて、長々ダラダラとブログを続けてしまいましたが、そろそろ締めに入って行きたいと思っています……思ってはいるんです……がしかし、なかなか進みが遅くなると思います。今から謝ってしまいます。ごめんなさい…

 

   私めが地元の歴史に興味を持ち、調べ始めたのは今から12年前になります。まだまだ調査も考察も甘いですが、自分の故郷がなぜそこにあるのか?その理由が少しわかって、今はとても誇らしい気持ちです。

    思い起こせばそれは、小学校6年の時です。歴史の授業でした。

    「士農工商」の話を先生がしていた時、その場の空気を和ませようとしたのでしょう、先生は言いました「…なので、Yaotome の家は士農工商で言うと1番下になるって事だな!」

    当時ウチの実家は、自営業でお店を開いていました。田舎とはいえ、店が全くないわけではなく、ただそのクラスでは私めの家が唯一の商業の家だったのです。今の時代でこんな事言ったら大変ですよね。最近の教科書には「士農工商」というのは載っていないそうで…いやはや時代ですね…

   ただ、当時の自分はやはり納得できず、帰宅後祖父母に尋ねました「ウチのご先祖はどんな人物」か?

    しかし、実家での始祖様は曾祖父母という事で、あまり期待した答えではありませんでした。ですが、この時の会話が元で、祖父は親戚が集まる行事の度に古い系図を掘り起こそうとしてくれていました。それを元に家系図を作ろうとしていたようなのです。この事実も、祖父が亡くなって七回忌の法要の際に知りました。やはり、話をしなければ、聞かなければわからない事って多いですね。

   それはともかくとして、自分の家の歴史は浅かったと勝手に落ち込んだ私めは、ハタと思いつきました。一戸の家ではなく、町や村、つまり土地の歴史はどうだろう?と思い立ち調べ始めたのです。

   今ではすっかり郷土愛の権化と化しており、このブログでも妄想特急が走ってる部分が多いかと思われます。

   しかし、言い訳させていただけるなら、歴史をただの記録としてみるのではなく、人の生きてきた証として私は見ております。人が生きてきたのが歴史ならば、人の感情も歴史の一部ではないか?という想いでブログを綴っております。伝承や伝説には、人の想い、思惑、感情が含まれていると、私は勝手に感じております。

   前置きが長くて申し訳ありません。では参りましょう。

 

   とっても久々に、当ブログの過去の記事を読んでいました。

   ……なんという事でしょう…「摩奴良姫の実家を探せ!」が中途半端になっている⁉︎

   2年経ってやっと気づくという詰めの甘さ!というか頭のユルさ!というか…

   大山守命皇子と摩奴良姫の2人がいとこ同士での結婚である。というところで終わっていました。

   現代でもいとこ同士は婚姻できますが、古代の、しかも王族となると話が違ってくるようで、いとこ同士はもちろん腹違いの兄妹でも婚姻関係になれたようです。大王家ではそれが特に重要だったようで、記紀の中では大后は、大王と親戚関係にある者の中から特に選ばれたようです。妃(側室のようなもの)には有力豪族の娘などが入っていました。言い方は悪いですが、妃に入った娘が上手いこと大王の子供を授かれば、大王家との姻戚関係が築けるといった寸法です。

   血が近い者同士の婚姻は危険が伴う。古代の人もそれはわかっていたとは思います。しかし、大王家の神聖な血が濃ければ…その子は日継ぎ皇子(皇太子)として頂点により近くなる。

    私は勝手に「血の神聖」と呼んでいますが、大王家の血を神聖視していたのだろうと思います。

   和邇氏の大山守皇子と摩奴良姫。素性を辿ればどちらにも大王家の血が入っている。(表面上はですが)

   その2人の子である「津布良古王」は、おそらくもっとも大王の地位に近かったことでしょう。

   そして、そのように筋書きを組んだのはやはり最高権力に最も近かった「和邇」の一族だった。

   和邇氏は、最先端の技術を武器に国内の地位をぐんぐん上げていきます。しかし、昇りつめてしまえばあとは下るのみ…和邇氏は他の豪族に足元を掬われてしまうのでした。

 

   さて、ここでまたもや名前について語りたいと思います。以前にも語らせていただきました「摩奴良比売」という名前ですが…そう、出雲神話クシナダヒメの本名「久志伊奈太美等與麻奴良比賣」と同じ名前なんです。

クシナダヒメも「麻奴良比賣」

土形氏の母も「摩奴良比売」

   つまり、この2人の夫=スサノオ

ということになるのです‼︎

…若干の無理矢理感は否めませんが…

ただ、記紀で披露される出雲神話を見ると、スサノオクシナダヒメが2人1組のセットととして刷り込ませているように思えるのです。もうお分かりでしょうか…?

    そうです。

    大山守命皇子はスサノオの立ち位置なんです。

   大山守命皇子=菟道稚郎子皇子=スサノオ

  さぁだんだんと訳がわからなくなってきました。いつも下手くそな説明で申し訳ないです。

   残念ながら、また続きます。

   今回はこの辺で…では、また…

 

真実は小説より奇なり3

   仁徳天皇陵ユネスコ世界文化遺産に登録される見込み

   ニュースでざわついておりますね。仁徳天皇といえば、土形氏の祖先である「大山守命皇子」(宇治稚郎子皇子と同一人物ですよ☆)のご兄弟ですね。

   ………お祝いムードの中…思い切って水を差そうと思います。

   まず、仁徳天皇陵が本当に仁徳天皇のものなのか?

    私はキッパリ「違う」と言いたいですね。あそこまで巨大な墳墓を作るという事は、国の財政が潤っていなければできないのではないでしょうか?

    同じ世界三大墳墓の「クフ王のピラミッド」も「秦の始皇帝陵」もそれぞれの王たちが国の繁栄を築いてきたからこそできた墓であると言っても過言ではないはずです。

    仁徳天皇の時代…正直、あの巨大な墓を築くまでの繁栄があったのか?というのは疑問です。

    更に、歴代の天皇陵の比定に関して、そのほとんどが明治時代に日本書紀を参考にして定められたと言うのがまたひとつ疑問に挙げられます。

   そして、今日まで天皇陵の比定地が曖昧のままになってしまったのは、ほとんどの天皇陵が禁域として定められ、各墳墓の学術調査が思うようにできないというところに問題があります。

    仕方ないと言えば仕方がないですが…そろそろ、日本人も自分のルーツをハッキリさせる時期なのではないでしょうか?

  … 生意気を申しました。

 

   さて、話を戻しまして…

   柿本人麻呂さまが活躍していた頃、国は荒れておりました。

   壬申の乱を経て、天武天皇が治めていた時代。人麻呂は依紗羅姫(土形娘子)と幸せに暮らしておりました。とはいえ、人麻呂は大変忙しかった事でしょう。政権交代したばかりの国政。あれやこれやと整えるべきものが多かったと思います。私の勝手な妄想から申しますと、人麻呂は天武天皇の秘書のような役割だったのかもしれません。国政の様々な取り決めや制度を整えて行くために、最高責任者の手足となる者が必要だったはずです。人麻呂はおそらく、天武帝の代わりに各地各所を飛び回っていたことでしょう。

   そんな中でも、歌を詠み妻へと送る。それがあたかも各地の女性に恋文を送るかのごとく、人麻呂の詠んだ歌が万葉集に納められたのかもしれません。

   そうして数年後、天武帝が病に倒れた頃、おそらく政権にほころびが生まれたのかもしれない。その頃から藤原不比等が台頭し次第に力をつけてきたのではないでしょうか。

   その頃の不比等にとって目の上のタンコブのような存在が2つ。天武帝の手足となって動いていた「柿本人麻呂

    天武帝に味方して力を取り戻しつつあった「土形氏」

   まあ厳密にいうと、不比等にとって邪魔な人物は多々存在していたと思われますが…

   しかし最も厄介な柿本人麻呂の存在を抑えるために、不比等は強硬手段を取ったのです。

   そうです、それは人麻呂の妻を人質に取る事。

   人麻呂の妻「依紗羅姫」=「土形娘子」を人質にとってしまえば「土形氏」をも抑え込める。そうして不比等は実行したのだと思われます。しかし、依紗羅姫は妊娠または既に子を生んでいた。だがそこはそれ、不比等は考えた事でしょう「いつか手駒として使えるかもしれない」と。

    人麻呂の葬送歌はひょっとしたら、妻が監禁されている場所を指して「あそこに妻が居る」と訴えている歌なのかもしれない。

   そして、依紗羅姫は「賀茂比売」として歴史書に載ることになった。

   そうです「賀茂比売」とは「矢の姫」なんです。

   「矢の姫」は「八の姫」

   「八の姫」は人身御供として化け物に捧げられてしまう。そう、まるで「出雲神話」の「クシナダヒメ」のように…

 

   更にもう一つ、この賀茂比売が生んだ「宮子姫」

   度々申し上げますが、柿本人麻呂の子です。そして、おそらく女性で初めて名前に「子」という字をつけられた方です。

  以前お話した事があると思いますが「子」あるいは「古」という字は元々男性、男児に多くつけられておりました。古代においては、比較的「和邇氏系」の氏族に多かったとか…

   この「宮子」という名前、おそらく名付けたのは母である「賀茂比売」つまり土形娘子です。何故なら「宮」という字は陰陽五行で表すと「土」だからです。更に言えば「土」は「央」つまり「中心」なんだそうです。

   また怪しさが増した…と思わないでくださいね。

   そもそも、この時代は大陸(主に中国ですね)からの文化、思想が日本に大いに流入しておりました。その証拠に、都を造営する際にも中国の文化を参考にしています。陰陽道の考え方も伝わっていました。天武帝陰陽道を学んだとか……

   最もわかりやすいのが、平城京遷都の際の元明天皇の「平城京遷都の詔」ですね。

   平城の地は四禽図に叶い三山鎮をなす   

 

   すみません、わからない方は自分で調べてください。今回は解説飛ばします。

 

    話を戻しまして…

    土形娘子は、生まれた我が子が「藤原」の娘として生きていかなければならない事が悔しかった。だからこそ名前に真の素姓を託したのかもしれない。

   我が子は「土」の子也

   

   我が子は「土形」の子であると…

   そして、そんな「賀茂比売」の意を汲んで、柿本人麻呂は妻の故郷である「土形」の里を守るかのごとく「遠江熊野大社」を建立したのである。

   そうです、柿本人麻呂は奥野左衛門是吉だったのです!

   今も旧大須賀町にある「三熊野神社」には、彼を祀る小さな社があります。

 

   柿本人麻呂の墓は大須賀にあり

 

   ちょっと信じ難い話になりましたが…

 

   さて名前が複数あってややこしいですね。申し訳ないです。

   でも、まだまだややこしくなります。ごめんなさい

 

   今回はここまでです

   では、また…

   

 

      

真実は小説より奇なり 2

  お久しぶりでございます。平成もあとちょっとで終わりますね。ひとつの時代に区切りがついて、物悲しくもあり、新しい時代への期待も有りでなんだか複雑な心境です。

   「令和」

    良い響きですね。せめて人々の喜びの多い年代になりますように。

    ではでは、本題に入りましょう。

 

   さて、前回突然登場いたしました「柿本人麻呂」さまですが…。この歴史的超有名人がどうして「土形氏」と関係してくるのか?とお思いですか?それとも、歴史好きにとっては「そんな事知ってますとも」と仰るでしょうか?

   そーなんです、実は日本最古の和歌集「万葉集」に柿本人麻呂の妻では?という事で「土形娘子」という人物が出てくるのです。しかし、人麻呂がこの「土形娘子」にと詠まれた歌は「葬送歌」だったため、この娘はわざわざ田舎から人麻呂の元へ嫁に来たのに、若くして亡くなってしまったのだろう…というのが今までの見解です。

   しか〜し!私はこの見解に異論を唱えます‼︎

   まず、この土形娘子は「若くして」亡くなってはいないのです。

   葬送歌なのに?と思いますでしょうが、しばしお待ちを…

 

   万葉集が編纂された頃、おそらく「古事記」「日本書紀」も編纂、あるいは完成されていた頃だと思われます。

   そして、その頃の権力者といえば、言わずと知れた「藤原氏」であった。

   柿本人麻呂は、元々天武帝に仕えていたために藤原政権に疎まれていた。そのため、人麻呂が残した歌を後世に残すためには策を労す必要があったのだ。人麻呂の歌を残すために、様々な歌を集めた「万葉集」に人麻呂の歌を散りばめたのではないのだろうか?

「木を隠すなら森に」という言葉があるように「歌を隠すなら歌集に」と編纂者は考えたのではないか…

 

   ところで…「柿本人麻呂」をよく「宮廷歌人」と称するモノが多いが、これは役職ではないというのは…歴史が好きな方はご存知ですよね。

    そんな雅な役職があるはずも無く、当然、人麻呂は当時の位階制度に則り何かしらの役職についていたはずです。しかし、それすらもわからない謎の歌人として、何故か有名になってしまった柿本人麻呂さま。

   さまざまな研究者の方々…ごめんなさい。私めはとんでもないことぶっ込みます。

 

   柿本人麻呂は、妻と子供のために「古事記」と各所の伝説伝承を作り上げました。

 

   はいスミマセン申し訳ございません。

   でも言っちゃいます。

   前回、お話させて頂きました「宮子姫」

   彼女は、藤原不比等の実子ではありません。そう、柿本人麻呂と土形氏の娘、伝承では、人麻呂の妻の名を「依紗羅姫」と申しますが、この2人の間に生まれてきた姫なのです。

   かなりぶっ飛んだ妄想だと思われるでしょうが、まぁそのまま聞いて(?)ください。

   まず、人麻呂と土形娘子「依紗羅姫」の馴れ初めですが…

   人麻呂は元々、大海人皇子(のちの天武天皇)に仕えておりました。大海人皇子は後々の事を考え、各地に味方を作っていた。その一つが、土形氏であります。

   今まで語ってきました通り、土形氏の始祖は大王家の御子でございます。つまりは元を辿れば皇族。更にはかつて国政の中心を担っていたであろう「葛城」「蘇我」との繋がりもある。更に更に、元々が「和邇」という海人族であるため、各地にパイプを持っていてもおかしくない。大げさに言ったとしてもこの土形氏が大海人皇子に味方しないわけがないのだ。その証拠に「土形氏系図」に天武朝の官位「直大肆」を賜わった人物がいる。壬申の乱の折にそれなりの功績があったのだろう。

   そんな繋がりの中、一族の娘が柿本人麻呂の元へ嫁いだのは自然の流れだったと思われる。そういえば「柿本氏」も元を辿れば「和邇」ではないか。

   ここからは、私の妄想力が暴走していると思われるかもしれないが…

   人麻呂と依紗羅姫は互いに惹かれあって一緒になったのだろう。

   だからこそ人麻呂は古事記万葉集にヒントを残した。それは後の世に真実を伝えるために。

   あ、ちょっとわけのわからない流れになってきましたでしょうか…

   今回のところはこの辺で…

   では、また…

    

 

 

 

  

真実は小説より奇なり

   どーもです。今回は、宮子姫と土形氏との関係性を語りたいと思います。

   前回、遠州の熊野三山が何故か「土形」の地を囲うように建立されている…と語りました。

   「偶然でしょ?」と言われてしまえば、確かにそうかもしれない…しかし!思い出していただきたい…日本書紀の編纂者は宮子姫の父とされる「藤原不比等」なんです。土形氏の祖先である「大山守命皇子」を叛逆者として歴史に残した張本人なんです。その藤原不比等の娘に関わる神社が、藤原不比等が歴史から葬り去りたいと思っている一族の関係する土地に作られたわけです。何かある…と思いますでしょう⁉︎

    ある人は言いました。

   「この神社の創建譚は由緒ある藤原氏との関係を謳い、神社の格を上げたいが為の創作である」

    果たしてそうだろうか?そこまで藤原氏におもねるような事をしていたとして、なぜ「土形氏」は歴史上から一切排除されているのか?

   答えは簡単、藤原氏にとって土形氏は不都合な存在だからだ。だからこそ、宮子姫所縁の社は土形氏所縁の地に建てられたのである。

    回りくどい言い方はやめておきましょう……

   

   宮子姫は土形氏の娘である

   

   …わかります…何を言い出すんだ?ってなりますよね…

    ですが説明させてください。

    そもそも、宮子姫は藤原不比等の実の娘では無いのです。

   「髪長姫の伝説」をご存知だろうか?

   前回ご紹介した「道成寺」の縁起にまつわる伝説でございます。

   その昔、紀州のある村に子供に恵まれぬ漁師夫婦がおりました。

    夫婦は熱心に八幡宮に子宝祈願をし、見事女の子を授かりました。ところが、生まれた子には髪が無く、成長しても髪は生えてこなかったのです。

    そんなある日、村では不漁が続き、村人たちは困りはてていました。そんな折、海の底になにやら光り輝くモノが…。

    村人たちは、この光るモノのせいで不漁となったのでは?と考え、この怪しく光るモノの正体を確かめねば!となったのです。

   漁師夫婦の妻は「娘の髪が生えないのは私の前世での行いが悪かったせいだ、今償いとして私が光りの正体を確かめれば娘の髪は生えて来るかもしれない」と考え、自ら海に潜って行きました。

   果たして光り輝くモノの正体やいかに⁈

   それは 黄金に輝く仏像でありました。

   海から持ち帰った漁師の妻は、仏像を祀り毎日拝みました。すると、娘の頭に黒く美しい髪が生えてきたのです。

   ある日、一羽のスズメが漁師の娘の髪を咥えて飛び立ち、そして都に降り立った。スズメが降り立った場所こそ、時の権力者である藤原不比等の邸宅であった。スズメが持ち去った美しい髪の毛を見つけた不比等は、この髪の持ち主を探させ、遂に漁師の娘を見出し、養女にした。

 

   少々割愛をしましたが、以上が宮子姫が藤原不比等の養女に迎えられた経緯として、道成寺に残された伝説であります。

   さて、重要なのはどこかと言いますと…宮子姫が藤原不比等の実子ではなく養子である。という事です。

   おかしいと思いませんか?天皇の妃となる娘を養子にした話を、寺の創建譚としてわざわざ伝え残す…

    歴史の改竄までやってのける藤原不比等が、自身の立場を危うくしかねない話を残してしまうなんて⁈

    しかし私は気がついたのです。「残してしまった」のではなく「この物語を残さねばならなかった」のではないか?と。

   皆様、思い出していただきたい。道成寺遠江熊野三山が同じ創建年代である事を…

   熊野神社道成寺の創建年が同じになってしまったのは、おそらくその当時既に文武天皇の妃として収まっていた宮子姫が、藤原不比等の実子ではないという噂が広まっていたからではないだろうか。正確には、噂ではなく、暗黙の了解、もしくは周知の事実。宮子姫が実子ではないという真実が知れ渡っていたのだ。

   この真実を逆手に取り、美談として収束させるべく、不比等道成寺と共に「髪長姫」の伝説を創り上げたのである。

   さて、ここまできてお気付きの方はいらっしゃるでしょうか?

    そう藤原不比等は、宮子姫の出自を隠したかったのです。

    そして、宮子姫をどうしても文武天皇の妃に据えたかった。それは、自分の娘として天皇家との繋がりを結ぶため…ではなく、自分の意のままにできる天皇を生み出す布石にするためだったのです。

   しかし、当時藤原氏は、権力はあっても人気が無かった。そんな時に藤原氏の娘を天皇家に無理矢理ねじ込んでも、貴族達のみならず、民衆からも相当な反発を受ける事は目に見えていただろう。

    ならば、反発を受けない血筋の者を当家に引き込めば良い。と考えたのではなかろうか?

    そうして目をつけられたのが、柿本人麻呂の妻として大和国にいた土形氏の娘である。

    はい、すみません突然、柿本人麻呂さんを登場させてしまって…

    ですが実は関係があるんです‼︎

    妄想だろ⁈と言われそうですが、きっと辻褄が合うんです‼︎

    もう少しお付き合いくださいませ…

    では、また…

    

   

 

   

 

   

継ぐモノ、ツナグもの

   どーもです。

   今回はちょっと暗い話から入ります。苦手な方は飛ばして読んでくださいませ。

 

   1ヶ月程前に、私めの実の父親が他界しました。

    もう親が亡くなっていく歳なんだと実感しつつ、6年前に亡くなった祖父母の事も思い出していました。

   人が亡くなると、残された者は「もっと話をすればよかった、もっと何かしてあげれば良かった」と思うのですね。人それぞれとは思いますが、故人と近ければ近いほどそう思うのではないでしょうか?

   私は、家での父とは違う面を父の友人方から聞くにつれ、もう少し話をすればよかったと思いました。同時に、亡き祖父母とももっと話をすれば良かったと…。

    話をする、聞くというのは、それだけでもう歴史なのではないかとふと思ったのです。いわゆる「語り継ぐ」というものです。

   そうやって語り継がれてきたものが歴史の真実を語ってくれたりもするのです。

 

   さぁ本題へ入りましょう。

   みなさんは、日本史って曖昧なところが多いなぁと思ったりしませんか?

   例えば「邪馬台国」「古事記の作者」

「本当の初代天皇」「柿本人麻呂」等々…。というか、ほとんど私が興味のあるものばかりなんですが…

    さて、日本最古の歴史書として名の上がる「古事記日本書紀」なのですが…日本最古にも様々な定義があるようで、私もあまり難しい事は言えません。これからお話しする内容も…「それって妄想…」と言われそうなモノです。それでも、私は語り継がれたモノを信じてみようと思うのです。

 

   我が故郷「土方」で語り継がれてきたものといえば「高天神城の姫井戸」でしょうか。しかしこれは、以前にも語らせていただきました通り、実は「羽衣伝説」の原形だったのです。なぜ、羽衣伝説を残したのか?

    それは「土方」の土地を囲うように建てられた三つの神社の謎を解く事でわかってくるのです。

 「土方」を囲うように建っている三つの神社とは「熊野神社」です。

    掛川市、旧大須賀町にある「三熊野神社

    御前崎市にある「高松神社」

    掛川市上土方の「小笠神社

    この三つの神社は、本家和歌山県の「熊野三山」の三つの社から勧請されており、それぞれ「本宮」「新宮」「那智宮」とされております。

    創建は701年、奈良時代です。

    何故、熊野三山遠州の、しかも「土方」にやってきたのか…。伝承には…文武天皇の妃である「宮子姫」がご懐妊の際、無事の出産を和歌山県の熊野の神々に祈願され、無事成就された御礼として東方の良き土地に熊野三社を創建された。それこそが上記の遠州の熊野三社である…とあります。

    そして、この宮子姫がお産みになった御子が後の「聖武天皇」であります。

   さて、少しややこしくなります…。

   この宮子姫の父親というのが「藤原不比等」であります。

    私はこの藤原不比等こそが、日本の歴史を迷宮入りさせた張本人だと考えております!

    何故なら、日本書記の編集者であった藤原不比等が歴史改竄を行ったからです‼︎

   なので、歴史系TV番組などで「とんでもない偉人」と紹介されたり、持ち上げられたりすると、私はいつも思うのです…(なにもわかっちゃいない番組だ‼︎)と。

    しかし、残念な事にこのような定説を裏返す大逆転的で決定的な証拠がまだ見つかっておらず、あるのは伝承等から推察されたものばかり…。それこそが藤原氏の狙いであったのかもしれません。

藤原氏に不都合な歴史的真実は切り捨てるべし。

   そうして史実改竄は行われたのです。

 

   …失礼しました。つい熱く語り過ぎてしまって…

   さて、宮子姫の希望(?)通り、熊野神社は都より東方の地にて鎮座坐しますこととなりましたが、その鎮座地選定はどのように行われたのか…?それについても伝承が残されていました。

   まず舟を三艘用意し、それぞれに熊野三社を表した幣をたて、東方へと流し、それぞれが流れ着いた場所に社を建てた。

   という事らしいのですが…

   おかしいと思いませんか?そんな都合良く三艘の舟が同じような場所に辿りつくでしょうか?特に那智宮の幣を立てた舟は、はじめ現掛川市大須賀の雨垂という土地に流れ着いたらしいのですが…その場所から何故か内陸部の小笠山に社を建てました。

    那智宮の幣なので、滝を表すならば山だろうと思ったのでしょうか?

    理由は想像できても、確定ができないのがもどかしいところです

    とにかく、この遠江の熊野三社は「土方」の地を囲うかの如く建てられているのです。

   さて、この熊野三社。一体誰が建立を進めたのか?…というのも、三社の由緒に共通して登場する一人の人物がいるのです。

    その名も「奥野左衛門是吉」

    正直なところ、誰だ⁇としか言いようがないのですが…三社の由緒によると、この人物が三艘の舟の着陸を見届け、選定地を定め、三社を建立し、後に神職についた人物なんだそうです。

    この是吉なる人物、名前はわかっているのに、文献等には一切出てこない謎の人物なんです。…というかそんな人ならいくらでもいるでしょ?…とお思いでしょうが、ちょっと待ってください。

   この三つの神社を建立する理由は、後に天皇となる、藤原氏系の皇子の無事誕生の祈願成就の為なんです。

    いわば藤原氏の、天皇外戚による権力掌握の第一歩となる皇子のための神社ですよ?なのに何故?神社建立という一大イベントが歴史書等々に一切載らないのか⁉︎

    私には、藤原氏の意図的な隠蔽により神社建立など無かった事にされた…という風に見えるのです。更に、念には念をという事でしょうか?

    同じ建立年(701年)に、藤原氏建立の寺として「道成寺」が建てられました。発起人は宮子姫の夫である「文武天皇」という事らしいですが、建立の責任者は「藤原道成」というこれまた実在するのかしないのかわからない人物です。

    言い出したらキリがないでしょうが、穿った見方をすると、この熊野三社建立を塗り潰すかのごとく道成寺を建立した。という事ではないだろうか。

   さて、途中から語りが本題から逸れているような感はありますが、長くなってきたのでこの辺りで次回へ持ち越しと致します…。では、また…

 

    

 

   

   

新年初登頂‼︎

   新年でございます。

   明けましておめでとうございます。

   今年は久々に地元に帰って高天神城跡のある「鶴翁山」に登って来ました。まぁ地元っ子は皆「高天神に登る」と言いますが…。

   今年は初日の出がとてもキレイに見ることができました。そして、初日の出を拝んだ後、本丸跡へと向かったところ…

  

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  まるで絵画のような富士山を見ることができました。

   実はこの富士山、冬場は空気が澄んでいるせいか、山頂に登らずとも高天神(鶴翁山)の麓からでも見えます。

   さすがは日本一の山。

 

   さて、「富士山」…なぜ「ふじ」と呼ばれるようになったのか?

   ご存知の方もいらっしゃるだろうと思いますが…「不死の山」…日本で1番高く死なずの山であるとか「不二の山」…二つとない山である。という意味あいを込めて名付けられたというのが一般的に知られている由来ではないでしょうか?

    しかし私は見つけてしまいました…そう、富士山の本当の由来を!

 

    以前お話しした通り、富士山信仰の総本山である富士山本宮浅間大社を奉斎するのは「和邇部氏」です。そして「土形氏」の祖「大山守皇子」の正体が「菟道稚郎子皇子」であるということから、「土形氏」は「和邇氏」の末裔であると申しあげました。

    そして、和邇氏の証として「羽衣伝説」をあげました。

    現在、最古の羽衣伝説とされているのが「丹後国風土記」に残された羽衣伝説である。この風土記の羽衣伝説と、高天神城に口伝のみで残る「姫井戸の伝説」が実は羽衣伝説であり、丹後風土記の羽衣伝説と同一のものである。というのが私めの唱える「土形氏は和邇氏の末裔である」説なのです。

    …なんだか陳腐な文になってしまいましたが…。

    では、上記の羽衣伝説と富士山の名前の由来がどう繋がるかと言いますと…丹後風土記の羽衣伝説の地である、京丹後市の磯砂山はかつて「比治山」と呼ばれておりました。この比治山の麓にあるいくつかの社の一つに「藤社神社」(ふじこそじんじゃ)というものがあります。この神社も羽衣伝説に関わる神社で、なんと天女を里から追い出した「和奈佐の夫婦」を祀る社があるとか!…いえいえ、言いたいのはそこではなく…この「藤社神社」という名前です。「藤社」の「フジ」は「比治山」の「ヒジ」が訛ったものなんだとか…。

   さぁお気づきでしょうか?

   そう、「富士山」の語源は「ヒジサン」である可能性が高いのです‼︎

   そして私めはもう一つ気がつきました。京丹後市の羽衣伝説の地「磯砂山(旧比治山)」と高天神城有する「鶴翁山」の二つの山の形がどちらも台形で似ている事に。

    大山守皇子(菟道稚郎子)が失脚し、その子孫(皇子の津布良古王)が亡命の地を探している時、偶然にも見つけた山が故郷にあるかの山に似ていた…。おそらく郷愁に駆られたのではないだろうか…?そうして、この地にもうひとつの「土形里」を作ったのだろうと思うのです。

   ちなみに、羽衣伝説が作られたのは津布良古王くんがお母さんと亡命してきた時代よりも後の世の事です。それについては後々またやります。

    

    「ヒジサン」→「フジサン」になり、奉斎を始めたのは「和邇氏」なんですね。おそらく、ただ滅びていくのではなく、なんとしてでもこの悔しい想いを伝え残したい!という強い想いがあったのではないでしょうか?

    

    富士山の由来は比治山に有り

 

    どうでしょう?新たな由来説として加えていただけないでしょうか…

 

    またまたちなみになんですが…「フジサン」にはもう一つの意味を込めて「不死山」というのもあるのではないかと思っております。

   それは大山守皇子菟道稚郎子皇子も、その子供である津布良古王=円大臣(一言主大神)も記紀の中では一度死んでいるのですが、各地に残る伝説では「実は生きている…」というモノがあり、「死なずの伝説」を持つ一族として伝え残していこうとしたのかなぁと思うのです。更には、和邇は海人族ですから、大陸からの最新の技術と共に最新の医術をも手に入れていたとしたら…今まで助からなかった命が助かって生き延びた!なんて事で「死なずの一族」としての噂も立っていたのではなかろうか?

   証拠があるわけではないので憶測ですが…

 

   ではでは今年もよろしくお願い致します。

   

    

よみがえりの一族

  どーもです。大変お久しぶりです。遅くて申し訳ないです。

   さて、只今放送中のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」に今度「高天神城」が登場します。

   「高天神城を征する者は遠州を征す」とまで言われるほどの重要な城…だったんですよ。今は…なんだかうら寂しい感じですが…。

   しかし、虎松役の菅田将暉くんが「高天神城」と言ってくれるだけで高天神城も報われる気がしますね。

   …何回も言ってくれないかなぁ…。

   …もう大河ドラマの撮影終わったらしいので無理ですけどね…わかってますけどね…。

   高天神城へおいでの際はぜひ、当時の処刑場跡の「首斬り塚」と、おそらく晒し首の場所であったであろう「千人塚」も見て行ってくださいませ。

 

   なんだかおどろおどろしくなって来たので話を元に戻します。

 

    前回までは、神話のような時代のお話でしたが…今回はちょっと時代が下って、古墳時代後期〜奈良時代の土形氏のお話にしましょう。

   土形氏初代「津布良古王」くんが都に上り、葛城円として大臣にまで出世し、そして葛城氏解散後(歴史書では滅亡)、再び「蘇我氏」として蘇った土形一族。葛城時代から変わらず大王家の陰日なたになって支えてきた…はずです。

   残念ながら、確たる証拠が無いためやはり私めの妄想と想像が入り混じってしまいます。

   「土形家系図」によると、推古天皇の御代にこの「土形」を名乗る事を許され「土形君」と呼ばれるようになったのです。

  推古天皇の御代と言えば、蘇我氏が台頭し、栄えていく頃でしょうか。更に、歴史的超有名人のかの「聖徳太子」がご活躍された頃です。そんな推古朝に仕え、位も「冠位十二階」第4位にあたる「小仁」を与えられ、派生氏族「日置氏」はおそらく聖徳太子のお子さんの1人の後見についたのでしょう。太子のお子さんの一人に「日置王」というお方がおられます。

   歴史書等にはほとんど現れない「土形氏」

   全くの陰の存在となってしまったのか…?

  今回は短いですがここまで…

  では、また…