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伊勢神宮の祭神かも…?

    お久しぶりです。なかなか話が進まなくて申し訳ないです。今回は、伊勢神宮についてです。   

    皆々様もご存知、伊勢神宮は内宮、外宮と2つの宮があり、内宮には「天照大御神」外宮には「豊受大御神」が祀られています。

    しかし、元々のこの地の祭神は別の神様であった。というのはご存知でしょうか?いわゆる「ある一説によると…」です。元々のご祭神はこの地域の土地神様だとか、「天照大御神」という女神ではなく、男神だったとか…。
    嫌な予感がした人、正解です。そうです、この元々のご祭神というのが「大山守皇子」=「菟道稚郎子皇子」だと私は考えております。あ、どうかチャンネルはそのままでお願いします。
    以前語ったように、大山守皇子は父である応神天皇に山海を治めるように命じられていましたね。という事は…海人達を治め、海人達の乗る船も管理していた可能性があります。古代の流通の要は水路。即ち、海運や川運。
   最も重要な道具といえば船だ。
   船の材料といえば木…木材。
   木材を得るために、山を管理していたはず。
   国の発展のために流通を良くする。その為には、海を治め、山を治める。
   一体何故、記紀の中で大山守皇子は端役のような…いや、端役よりも酷い「叛逆者」とされたのか…。流通を掌握するという事は国を掌握するのと同じではないのだろうか?それこそが、次期天皇である「皇太子」の役目であったのではないか?
    少し話が逸れましたが…山海を治める大山守皇子。当然「木の国」と呼ばれる程の森林を有する紀伊半島をも治めていた事だろう。正確には、伊勢神宮のある「伊勢国」と「木の国」は別物ではあるが…。おそらく、山海の管掌者である大山守皇子は木を育てる林業にも関わっていたはずだ。そうして後に神格化されていった。
   神格化され、伊勢に祀られていたはずが、何故か祭神の上書きをされてしまったのだ。おそらく、祭神が大山守皇子のままでは困ると考えた者が、後に祭神のすげ替えを行ったに違いないだろう。
   そして、元々祀られていた大山守皇子の近くへと、妻である「摩奴良比賣」=「豊受大御神」を祀らせたのは円大臣こと津布良古王であった。
   歴史は勝者が作る。
   いずれ伊勢に祀られる父の存在は消されてしまうだろうと知っていたツブラくんは、伊勢にある仕掛けを施した。
    伊勢にもう一つの社を建て、2つの社で一対の、あたかも夫婦神のような神社に仕立てたのだ。後の世で、真実を見出してくれる事を願って…。この社の創建を雄略天皇に許可させると、それが外宮の創建説話に「雄略天皇の夢のお告げ」として残ったのだ。
   
   そして、もう一つ。伊勢に残る「伊勢津彦」なる人物の伝説である。
    
    伊勢国には伊勢津彦なる者が住んでいたが、後から来た天津神に国土を渡すよう要求され、断ったものの、最終的には国を追われることとなり、伊勢を離れる際、太陽のように光り輝きながら東へ去って行った…という伝説である。
    また別名を「出雲建子」というらしく、出雲との関係も伺わせる。
    さて、この伊勢津彦、伊勢を離れて東へ向かいどこへ行ったかというと、なんと天竜川を遡上し、諏訪へと向かったという。この伝説のおかげで、諏訪の建御名方神伊勢津彦を同一視する説もあるらしい。
    建御名方神伊勢津彦  説はとりあえずあっちに置いておくとして…。私が注目しているのが、伊勢津彦が東へと去っていった時の状況である。
    太陽のように光り輝いて…
   表現を多少大袈裟にしているのだとしたら、これは「篝火」ではないだろうか?
   船に大量の篝火を…もしくは、篝火を焚いた大量の船団だったとしたら…?
   なにを言いたいかというと…早い話が伊勢津彦大山守皇子であるという事だ。
   またか…と思われた方、その通りです。またなんです…。でも、ちょっと待ってくださいね、続きがありますので…。
    ちょっと思い出していただきたい。大山守皇子を祀る山形県の七所明神の伝説を…
 
    四世紀初頭、大山守命は次期天皇の座を辞退し、東路を目指して旅立ったという。このことを知った悪臣どもが、「大山守命は東国に下って軍勢を整え、都に攻め上るであろう」と言いふらしたため、天皇となった兄(仁徳(にんとく)天皇)の連臣(れんじん)(家臣団)から命を狙われるはめとなった。
 
    東国を目指した大山守命。そして、国を追い出され、東へ向かって去っていった伊勢津彦。2人の境遇がカブっているように見えるのは私だけ…でしょうけど…。しかし、大山守皇子が一族を率いて東国へ向かったとするなら…それはおそらく、海人達を治め従えた大山守皇子の氏族、和邇一族の大船団だったのではないだろうか。
    さぁ、いつも通り私の妄想劇が止まりませんよ。
    大船団で、しかも篝火を焚いていたとするならば、さぞかし目立った事だろう。なぜ大山守皇子はあえて目立った逃亡劇を演じたのか。
   理由は簡単、我が子を少しでも安全に逃がす為。
   大山守皇子はわざと目立った動きをして、兄である大雀皇子の軍を引きつけておき、その隙に妻「摩奴良比売」と息子の「津布良古王」を逃がそうとしたのだ。
 
   さて、大船団で東へ向かった和邇の一族は、伊勢津彦の伝説通り諏訪国へ向かったのか?
    残念ながらハッキリとした足跡はわからない…。しかし、大人数で丸々移動するには目立ち過ぎる。態勢を立て直すなら小規模な団体に分かれて行動した方が良いと判断しただろう。
   そうして和邇一族は各地に散らばっていったのではないだろうか…。
   突然ではあるが、山梨県富士吉田市浅間神社宮司家、宮下家に伝わるという「宮下文書」というものをご存知だろうか?
    この宮下家はなんと大山守皇子の子孫なんだとか…。しかし、私としては残念ながら「土形氏系図」がある以上、宮下家が本当に大山守皇子の子孫とは思えない。しかし、大山守皇子と共に逃げた和邇の一族の一部であったのではないかと思うのだ。つまり、宮下家は大山守皇子の直系の子孫ではなく、大山守皇子と共に都を追われた和邇一族の子孫であったのだ。
    都を追われ、散り散りとなった和邇一族はどこへ行ったか。
   少し長くなってしまったので、次回へ持ち越しと致しましょう。
   ではまた…。