継ぐモノ、ツナグもの

   どーもです。

   今回はちょっと暗い話から入ります。苦手な方は飛ばして読んでくださいませ。

 

   1ヶ月程前に、私めの実の父親が亡くなりました。

    もう親が亡くなっていく歳なんだと実感しつつ、6年前に亡くなった祖父母の事も思い出していました。

   人が亡くなると、残された者は「もっと話をすればよかった、もっと何かしてあげれば良かった」と思うのですね。人それぞれとは思いますが、故人と近ければ近いほどそう思うのではないでしょうか?

   私は、家での父とは違う面を父の友人方から聞くにつれ、もう少し話をすればよかったと思いました。同時に、亡き祖父母とももっと話をすれば良かったと…。

    話をする、聞くというのは、それだけでもう歴史なのではないかとふと思ったのです。いわゆる「語り継ぐ」というものです。

   そうやって語り継がれてきたものが歴史の真実を語ってくれたりもするのです。

 

   さぁ本題へ入りましょう。

   みなさんは、日本史って曖昧なところが多いなぁと思ったりしませんか?

   例えば「邪馬台国」「古事記の作者」

「本当の初代天皇」「柿本人麻呂」等々…。というか、ほとんど私が興味のあるものばかりなんですが…

    さて、日本最古の歴史書として名の上がる「古事記日本書紀」なのですが…日本最古にも様々な定義があるようで、私もあまり難しい事は言えません。これからお話しする内容も…「それって妄想…」と言われそうなモノです。それでも、私は語り継がれたモノを信じてみようと思うのです。

 

   我が故郷「土方」で語り継がれてきたものといえば「高天神城の姫井戸」でしょうか。しかしこれは、以前にも語らせていただきました通り、実は「羽衣伝説」の原形だったのです。なぜ、羽衣伝説を残したのか?

    それは「土方」の土地を囲うように建てられた三つの神社の謎を解く事でわかってくるのです。

 「土方」を囲うように建っている三つの神社とは「熊野神社」です。

    掛川市、旧大須賀町にある「三熊野神社

    御前崎市にある「高松神社」

    掛川市上土方の「小笠神社」

    この三つの神社は、和歌山県の本家「熊野三山」の三つの社から勧請されており、それぞれ「本宮」「新宮」「那智宮」とされております。

    創建は701年、奈良時代です。

    何故、熊野三山遠州の、しかも「土方」にやってきたのか…。伝承には…文武天皇の妃である「宮子姫」がご懐妊の際、無事の出産を和歌山県の熊野の神々に祈願され、無事成就された御礼として東方の良き土地に熊野三社を創建された。それこそが上記遠州の熊野三社である…とあります。

    そして、この宮子姫がお産みになった御子が後の「聖武天皇」であります。

   さて、少しややこしくなります…。

   この宮子姫の父親というのが「藤原不比等」であります。

    私はこの藤原不比等こそが、日本の歴史を迷宮入りさせた張本人だと私は考えております!

    何故なら、日本書記の編集者であった藤原不比等が歴史改竄を行ったからです‼︎

   なので、歴史系TV番組などで「とんでもない偉人」と紹介されたり、持ち上げられたりすると、私はいつも思うのです…(なにもわかっちゃいない番組だ‼︎)と。

    しかし、残念な事にこのような定説を裏返す大逆転的で決定的な証拠がまだ見つかっておらず、あるのは伝承等から推察されたものばかり…。それこそが藤原氏の狙いであったのかもしれません。

藤原氏に不都合な歴史的真実は切り捨てるべし。

   そうして史実改竄は行われたのです。

 

   あ〜失礼しました。つい熱く語り過ぎてしまって…

   さて、宮子姫の希望通り、熊野神社は都より東方の地にて鎮座坐しますこととなりましたが、その鎮座地選定はどのように行われたのか…?それについても伝承が残されていました。

   まず舟を三艘用意し、それぞれに熊野三社を表した幣をたて、東方へと流し、それぞれが流れ着いた場所に社を建てた。

   という事らしいのですが…

   おかしいと思いませんか?そんな都合良く三艘の舟が同じような場所に辿りつくでしょうか?特に那智宮の幣を立てた舟は、はじめ現掛川市大須賀の雨垂という土地に流れ着いたらしいのですが…その場所から何故か内陸部の小笠山に社を建てました。

    那智宮の幣なので、滝を表すならば山だろうと思ったのでしょうか?

    理由は想像できても、確定ができないのがもどかしいところです

    とにかく、この遠江の熊野三社は「土方」の地を囲うかの如く建てられているのです。

   さて、この熊野三社。一体誰が建立を進めたのか?…というのも、三社の由緒に共通して登場する一人の人物がいるのです。その名も「奥野左衛門是吉」

    正直なところ、誰だ⁇としか言いようがないのですが…三社の由緒によると、この人物が三艘の舟の着陸を見届け、選定地を定め、三社を建立し、後に神職についた人物なんだそうです。

    この是吉なる人物、名前はわかっているのに、文献等には一切出てこない謎の人物なんです。…というかそんな人ならいくらでもいるでしょ?…とお思いでしょうが、ちょっと待ってください。

   この三つの神社を建立する理由は、後に天皇となる、藤原氏系の皇子の無事誕生の祈願成就の為なんです。

    いわば藤原氏の、天皇外戚による権力掌握の第一歩となる皇子のための神社ですよ?なのに何故?神社建立という一大イベントが歴史書等々に一切載らないのか⁉︎

    私には、藤原氏の意図的な隠蔽により神社建立など無かった事にされた…という風に見えるのです。更に、念には念をという事でしょうか?

    同じ建立年(701年)に、藤原氏建立の寺として「道成寺」が建てられました。発起人は宮子姫の夫である「文武天皇」という事らしいですが、建立の責任者は「藤原道成」というこれまた実在するのかしないのかわからない人物です。

    言い出したらキリがないでしょうが、穿った見方をすると、この熊野三社建立を塗り潰すかのごとく道成寺を建立した。という事ではないだろうか。

   さて、途中から語りが本題から逸れているような感はありますが、長くなってきたのでこの辺りで次回へ持ち越しと致します…。では、また…