伝説はかく語りき

 新年ですね。

 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

 ホントに一年なんてアッという間です。こんな事を毎年言ってます。ため息が増えた気がします。

 暗くなるのでやめましょう。

 本題に入る前に少しだけ小話です。

 今年の干支はネズミでしたね。漢字1文字で「子」と書きます。

 この漢字、実は2つの漢字からできている事をご存知ですか?

 

 終わりを意味する「了」

 始まりを意味する「一」

 

 つまり「子」は、1文字で終わりと始まりを表現しています。

 生まれてきた子供の魂は、前世を生き抜き、終えた魂であり、またこれから新たな生(世)を始める。といった意味でもあるかもしれません。

 今年の「子年」は、苦しみが終わって喜びが始まる年であって欲しいですね。

 

 では本題へ戻ります。

 前回「羽衣伝説」は伊豫部馬養と柿本人麻呂

共謀して作り上げた。と申し上げました。

 私は、その他にも人麻呂は古事記に仕掛けを残したと考えております。

 出雲神話スサノオクシナダヒメ

 ツヌガアラシトの来日

 磐姫の家出

 言い出したらキリが無さそうなのでここらでやめておきます。

 

 人麻呂は、しばらく藤原氏の言いなりになりつつ頃合いを見計らっていました。

 都を抜け出す時を…

   転んでもタダでは起きない。という想いで風土記や日本各地の伝説伝承を残し、あるいは作り上げていったのだろうと私は考えています。

 藤原の監視下から逃れるために手を尽くしたことでしょう。

 しかし、人麻呂は妻である依紗羅姫の安全を確保していたはずです。その方法とは…

 「犬養三千代」を味方につけること。

 犬養三千代をご存知の方もいらっしゃるでしょう。そうです、藤原不比等の後妻となり、聖武天皇の妻となる光明皇后を生んだ方でございます。

 一説によると、聖武天皇の父「文武天皇」の乳母であったとか…

   実はこの犬養三千代さんも人質として藤原家に連れてこられた方だったのです。…という犬養三千代の人質説は、以前紹介させていただいた「関裕二」先生がおっしゃっていた説です。ここでは割愛いたしますが、気になる方はぜひ先生の本を読んでください。

 

 犬養三千代は元々、文武天皇の母、阿閇皇女(のちの元明天皇)の元へ出仕していたという。そう言った関係から文武天皇(珂瑠皇子)の乳母となり、優秀な女官ということで、藤原不比等に見初められた…というのが通説らしい。

 乳母ということは、同じ時期に自らも子を生んでいる事になる。数年の差異はあるだろうが、文武帝と同じ時期に人麻呂の娘、宮子姫も生まれていた。

 元明天皇

 柿本人麻呂

 犬養三千代

 ひょっとしたらこの三人には、何かしらの繋がりがあったのかもしれない。

 『古事記』完成も元明天皇の御世であった。

 

 西暦701年。

 文武帝の妃、宮子姫が男皇子を出産。後の「聖武天皇」となる「首皇子」である。

 同じ年、何故か皇太天皇(持統天皇)が周りの反対を押し切って「伊勢僥倖」を決行。私はこの伊勢僥倖が「柿本人麻呂の処刑」を持統天皇が見物に行ったのではないか?と考えております。

 人麻呂の不審な行動等に藤原不比等は怯え、人麻呂を捕らえ、そのまま処刑を断行しようとした。

 しかし、人麻呂は処刑されるフリをして、予め準備していた舟に乗りそのまま東へと向かったのだ。それはさながら、伝承にあった伊勢津彦の如く…

大船団に見せかけ、幾つものダミーの舟を用意していたかもしれない。

 伊勢津彦の伝承は、大山守皇子(兎道稚郎子)の都落ちの様であると以前語らせて頂きましたが、どちらにせよ、人麻呂は藤原不比等持統天皇を挑発していたのかもしれない。

 

 捕まるものか

 

 探せるものなら探してみよ

 

と…

  ひょっとしたら、藤原政権では東国との関係がよろしくなかったのではないか…

    だからこそ、容易に手を出せぬ東へと人麻呂は向かったのかもしれない。更に言えば、妻の実家である土形郷へと向かったのかもしれない。

 

 土形郷を囲うように創建された東の熊野三社はおよそ三年をかけて完成した。

 伝承による創建者は「長忌寸意吉麻呂」であるとされているが、私はこの名も人麻呂の別名であると考えております。その他にも「山部赤人」も人麻呂の別名ではないか?と疑っております。

 

 またも余談ですが

 高天神城の「姫井戸伝説」は当初は「羽衣伝説」として土形午(牛?)養と柿本人麻呂が土形の郷人らに伝えたのではないだろうか?

 それが、長い時を経て戦国時代を経験し、更には、掛川城主であった山内一豊と共に「土形家本家」が土佐国へと移動してしまった為に、伝説が変化してしまったのだ。それでも、郷人らは「伝説」を伝え残さねば…という想いと本能で、親から子へ孫へと「井戸」の伝説は伝えられたのかもしれない。

 …ところで、これまた私めの勝手な妄想ですが…

「土佐」という国名。はっきりとした由来はわかっていないそうです。…何を言おうとしているかわかった人、いますよねきっと…

    そうです。「土形」と関わりがあるのではないでしょうか?

 呆れてしまった人はこの辺でやめておいた方が良いです。

 

 土形氏の初代。そうです「津布良古王」くんは実は「円大臣」であり「一言主神」なんです。

 一言主神は、四国の土佐国へと移り祀られております。

 故に、「土佐」とは「土」の「佐」(補佐等の意)という国名になったのかもしれない。

 徳川家康がその史実を知り、土形氏を抱える山内一豊土佐国統治を命じた…というのはさすがに飛躍し過ぎでしょうかね……

    ただ、ちょっと偶然が過ぎる気がして…

 

    ちなみに、「秀真伝え」(ほつまつたえ)という古文書には、一言主神の両親は「スサノオ」と「クシナダヒメ」であると書かれているとか…

   ただ、残念なことにこの「秀真伝え」という古文書には「偽書」疑惑がついております。

 さてさて…真実はどこにあるやら…

    ではでは、そろそろこの辺で…

     また…